栄山寺八角堂・栄山寺見どころ(修学旅行・観光)

栄山寺八角堂

●栄山寺八角堂は1901年(明治34年)3月27日に国の重要文化財、1952年(昭和27年)3月29日に国宝に指定されました。
●栄山寺八角堂は奈良時代中期の760年(天平宝字4年)~764年(天平宝字8年)に藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が父・藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)の菩提を弔う為に建立しました。ちなみに藤原武智麻呂の墓は当初、佐保山(奈良市市街地北部の丘陵地)にあったが、760年(天平宝字4年)に栄山寺北側の山上に改葬されました。
藤原仲麻呂(恵美押勝(えみのおしかつ))は飛鳥時代末期の706年(慶雲3年)に藤原南家の始祖で、左大臣・藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)と阿倍御主人(あべのみうし)孫女・貞媛の次男として生まれました。生来から聡明鋭敏で、読書家だったと言われています。また大納言・阿倍宿奈麻呂(あべのすくなまろ)に算術も学んだと言われています。725年(神亀2年)頃に内舎人(うどねり)から大学少允(だいがくのしょうじょう)を経て、734年(天平6年)に従五位下(じゅごいげ)に叙されたと言われています。737年(天平9年)に天然痘(てんねんとう)が流行し、藤原四兄弟と言われた父・藤原武智麻呂やいすれも叔父である藤原房前(ふじわらのふささき)・藤原宇合(ふじわらのうまかい)・藤原麻呂(ふじわらのまろ)が相次いで病死し、750年(天平勝宝2年)に11年間に9階という異例の早さで従二位(じゅにい)に昇進しました。ただその間に藤原氏の勢力は大きく後退し、第45代・聖武天皇(しょうむてんのう)の皇后・光明皇后(こうみょうこうごう)の異父兄・橘諸兄(たちばなのもろえ)も昇進して国政を担うようになり、その後対立しました。749年(天平勝宝元年)に第45代・聖武天皇が譲位し、従妹の阿倍内親王(あべ ないしんのう)が第46代・孝謙天皇(こうけんてんのう)が即位すると参議(さんぎ)から中納言(ちゅうなごん)を経ずに大納言(たいなごん)に昇進し、光明皇后の皇后宮職(こうごうぐうしょく)を拡充した紫微中台(しびちゅうだい)の長官となりました。756年(天平勝宝8歳)に聖武上皇(第45代・聖武天皇)が崩御して遺詔によって道祖王(ふなどおう)が皇太子になったが、喪中の不徳な行動によって廃され、意中であった大炊王(おおいおう)が立太子されました。その立太子に反対した橘奈良麻呂(ちばなのならまろ)らの反乱を未然に鎮圧しました。758年(天平宝字2年)に第46代・孝謙天皇が譲位し、大炊王が第47代・淳仁天皇(じゅんにんてんのう)に即位すると独裁政治を確立しました。760年(天平宝字4年)に皇族以外で初めて太政大臣(だじょうだいじん)に任じられ、同年に光明皇后が亡くなると孝謙上皇(第46代・孝謙天皇)と疎遠となり、道鏡(どうきょう)の処遇を巡って対立するようになりました。764年(天平宝字8年)に自らを都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使(ととくしきないさんげんおうみたんばはりまとうこくひょうじし)に任じ、孝謙上皇(第46代・孝謙天皇)に謀反を企てたが、密告によって失敗し、捕らえられて斬首されたと言われています。第47代・淳仁天皇は廃位されて淡路国に流され、廃帝(はいたい)・淡路廃帝(あわじはいたい)と言われました。
●栄山寺八角堂は八角円堂で、本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
栄山寺

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