円成寺多宝塔・円成寺見どころ(修学旅行・観光)

円成寺多宝塔

●円成寺多宝塔は1990年(平成2年)に再建されました。多宝塔はかつて平安時代末期から鎌倉時代初期頃に後白河法皇(第77代・後白河天皇)の寄進によって建立されたが、室町時代中期の応仁の兵火で焼失しました。その後再建されたが、1920年(大正9年)に老朽化によって鎌倉に移譲されました。多宝塔には1176年(安元2年)に仏師・運慶が完成させた木造大日如来坐像(国宝)が安置されています。
一般的に多宝塔は日本で上層を円形、下層を方形とした二重塔を言います。多宝塔は平安時代に密教が天台宗(てんだいしゅう)の宗祖である伝教大師(でんぎょうだいし)・最澄(さいちょう)や真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)が伝えれ、多宝塔が建立されるようになったと言われています。鎌倉時代初頭に建立された滋賀県大津市の石山寺(いしやまでら)の多宝塔が現存最古の例です。多宝塔は元々東方の宝浄国(ほうじょうこく)の教主・多宝如来(たほうにょらい)を安置する堂塔です。多宝塔はお釈迦様が大乗仏教の経典「法華経(ほけきょう)」を説いた際、空中に七宝の塔が現われ、塔中の多宝如来がお釈迦様に讚嘆(さんたん)して半座を空け、二如来が並座したと言われることに由来しています。
木造大日如来坐像は像高約98.8センチで、ヒノキ材の寄木造です。木造大日如来坐像は台座内に「運慶承安永元年(1175)十一月廿四日始之・・・」という墨書があり、仏師・運慶が20歳代で造仏し、仏像の初期作とも言われています。木造大日如来坐像は若々しい面相と体躯から新時代の気風が伝わってくるとも言われています。ちなみに木造大日如来坐像には眼に玉眼が用いられ、如来像に玉眼を用いない運慶作の仏像の中で、初期作の例外と言われています。なお大日如来は真言密教の教主で、宇宙の実相を仏格化した根本仏とされています。大日如来は太陽神が起源とされ、宇宙の根元で、諸仏・諸菩薩の本地とされています。大日如来は日本の密教において最高仏として位置付けられ、大日信仰が成立しました。
第77代・後白河天皇(後白河法皇)は1127年(大治2年)10月18日に鳥羽上皇(第74代・鳥羽天皇)と中宮・藤原璋子(ふじわらのしょうし)の第4皇子として生まれました。同年11月14日に親王宣下を受けて「雅仁(まさひと)」と命名され、1139年(保延5年)12月27日に元服して二品(にほん)に叙せられました。1129年(大治4年)に曽祖父・白河法皇(第72代・白河天皇)が崩御すると父・鳥羽上皇が院政を開始し、藤原得子(ふじわらのとくし)を寵愛したことから第75代・崇徳天皇に譲位を迫り、1142年(永治元年)に父・鳥羽上皇と藤原得子の子である第9皇子・体仁親王(なりひとしんのう)が第76代・近衛天皇に即位したが、1155年(久寿2年)に第76代・近衛天皇が崩御し、藤原得子の養子となっていた第77代・後白河天皇の第1皇子・守仁親王(もりひとしんのう)が第78代・二条天皇に即位するまでの中継ぎとして、立太子(りったいし)を経ないまま29歳で第77代・後白河天皇に即位しました。第77代・後白河天皇は皇位継承がもとで起こった保元の乱(ほうげんのらん)で勝利したが、1158年(保元3年)に在位僅か3年で皇太子・守仁親王 (第78代・二条天皇) に譲位し、第78代・二条天皇、第79代・六条天皇、第80代・高倉天皇、第81代・安徳天皇、第82代・後鳥羽天皇の5代・30余年にわたって院政を行いました。(停止・中断あり)また1169年(仁安4年)に離宮・法住寺殿で出家して法皇になりました。院政期間中には平治の乱(へいじのらん)・源平の合戦を経て、鎌倉幕府が成立しました。なお第77代・後白河天皇は鎌倉時代の1192年(建久3年)4月26日に崩御しました。
円成寺見どころ

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