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八幡神社本殿・八幡神社見どころ(修学旅行・観光)
八幡神社本殿
●八幡神社本殿は1920年(大正9年)4月15日に国の重要文化財に指定されました。
●八幡神社本殿は室町時代中期(1393年~1466年)に建立されました。八幡神社にはかつて僧形八幡神像(そうぎょうはちまんしんぞう)が祀られていが、現在は本殿に気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)・誉田別命(ほんだわけのみこと)・玉依姫命(たまよりひめのみこと)を祀っています。
気長足姫命は神功皇后(じんぐうこうごう)のことです。神功皇后は第14代・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の皇后で、第15代・応神天皇(おうじんてんのう)の母です。神功皇后は第14代・仲哀天皇の死後、201年(神功元年)から269年(神功69年)まで摂政として、三韓征伐(さんかんせいばつ)などの政事を行い、100歳で亡くなったとも言われています。ちなみに神功皇后はお腹に月延石(つきのべいし・鎮懐石(ちんかいせき))を当てて晒し(さらし)を巻き、冷やすことによって出産を遅らせ、第15代・応神天皇を生んだとされています。第15代・応神天皇は胎中天皇(はらのうちにましますすめらみこと)とも言われているそうです。
誉田別命は第15代・応神天皇(おうじんてんのう)のことです。第15代・応神天皇は第14代・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)と后・神功皇后(じんぐうこうごう)の第4皇子です。200年(仲哀天皇9年)に三韓征伐(さんかんせいばつ)の帰途に神功皇后が生んだとされています。胎中天皇(はらのうちにましますすめらみこと)とされ、かご坂皇子(かごさかのみこ)・忍熊皇子(おしくまのみこ)という異母兄達が叛乱を起こしたが、神功皇后が鎮圧して排除しました。203年(神功皇后摂政3年)に立太子し、270年(応神天皇元年)に天皇に即位しました。在位中に大和朝廷の勢力が飛躍的に発展し、巨大な陵墓が天皇の権力の強大さを示していると言われています。在位中に朝鮮半島から阿直岐 (あちき) ・弓月君 (ゆづきのきみ) ・王仁 (わに) ・阿知使主 (あちのおみ) らが渡来し、養蚕・織物・灌漑・治水技術などをもたらしました。第15代・応神天皇は310年(応神天皇41年)に111歳で崩御したとも言われています。
玉依姫命は初代・神武天皇(じんむてんのう)の母とされています。玉依姫命はうか草葺不合尊(うかやふきあわせずのみこと)の妃となり、彦五瀬命(ひこいつせのみこと)・稲飯命(いないのみこと)・三毛入野命(みけいりぬのみこと)、そして初代・神武天皇となる神日本磐余彦尊(かんやまといわれびこのみこと)を産んだとされています。なお玉依姫命は初代・神武天皇の先導をしたと伝える賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の娘で、丹塗矢(にぬりや)となった火雷神(ほのいかずちのかみ)との間に賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)を産んだとも言われています。
●八幡神社本殿は三間社(さんげんしゃ)流造(ながれづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。
流造は神社建築の一形式です。流造は正面入口にあたる屋根の一方(前流れ)が長く延びた形式です。流造は伊勢神宮(いせじんぐう)に代表される神明造(しんめいづくり)から発展し、奈良時代末期から平安時代に成立し、全国に広がりました。流造では上賀茂神社(かみがもじんじゃ)・下鴨神社(しもがもじんじゃ)がよく知られています。流造では正面(桁行)の柱間が1間(柱2本)の場合には一間社流造、3間(柱4本)の場合には三間社流造、5間(柱6本)の場合には五間社流造になります。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
八幡神社