法華寺十一面観音菩薩立像・法華寺見どころ(修学旅行・観光)

法華寺十一面観音菩薩立像

●法華寺十一面観音菩薩立像は国宝に指定されています。
●法華寺十一面観音菩薩立像は本堂(重要文化財)の厨子(ずし)内に本尊として安置されています。十一面観音菩薩立像は平安時代初期(9世紀前半)に造仏されたとも言われています。十一面観音菩薩立像は「興福寺濫觴記(こうふくじらんしょうき)」に第45代・聖武天皇(しょうむてんのう)の妻・光明皇后(こうみょうこうごう)が蓮池を渡る姿を写して造仏されたという伝承が記されています。乾陀羅国(けんだらこく・ガンダーラ)の見生王は生身(しょうじん)の観音を拝みたいと熱望していたところ「生身の観音を拝みたければ日本の光明皇后を拝めばよい」という夢告があり、仏師・問答師(もんどうし)を日本に派遣し、問答師が光明皇后をモデルに3体の観音像を造仏し、その1体が法華寺の十一面観音菩薩立像という伝承になっています。なお十一面観音菩薩立像は長年秘仏とされて通常非公開だが、春季・秋季に期間限定で特別開扉されます。ちなみに特別開扉以外では大仏師 松久朋琳作のご分身像を拝観することができます。
十一面観音菩薩立像は像高約1.00メートルで、榧(かや)の一木造です。十一面観音菩薩立像は目鼻立ちがはっきりとし、唇がほのかに紅色で、左足に重心を置き、右足を遊ばせ、長い右手で天衣(てんえ)の端をつまみ、左手に宝瓶(ほうびょう)を持っています。蓮のつぼみや葉を後光のように配した光背を持っています。光背は1905年(明治38年)に古い光背を踏襲して補作されました。
十一面観音像は頭部に11の顔を持つ菩薩です。十一面観音像は前3面は慈悲相(じひそう・柔和相(にゅうわそう))、左3面は忿怒相(ふんぬそう・憤怒相)、右3面は白牙上出相(くがじょうしつそう)、後1面は大笑相(だいしょうそう)、頂上1面は仏果を表わしています。十一面観音像は観音菩薩の変化身の一つで、六観音の一尊です。六観音は十一面観音・千手(せんじゅ)観音・聖(しょう)観音・馬頭(ばとう)観音・如意輪(にょいりん)観音・准胝(じゅんてい)観音または不空羂索(ふくうけんさく)観音です。十一面観音像は唐代以降の中国で盛んに信仰され、奈良時代(710年~794年)から日本で信仰を集めました。
光明皇后は701年(大宝元年)に藤原不比等(ふじわらのふひと)と県犬養橘三千代(あがたいぬかいたちばなのみちよ)の三女・安宿媛(あすかべひめ)として生まれました。その後皇太子であった第45代・聖武天皇と結婚し、その後非皇族初の皇后になりました。奈良時代前期の718年(養老2年)に第46代・孝謙天皇(こうけんてんのう)と第48代・称徳天皇(しょうとくてんのう)となる阿倍内親王(あべないしんのう)を産み、724年(神亀元年)の聖武天皇の即位とともに後宮(こうきゅう)の位階・夫人号を賜りました。727年(神亀4年)11月16日に皇太子・基王(基皇子(もといのみこ))を産んだが、728年(神亀5年)10月20日に亡くなりました。長屋王(ながやおう)の変後の729年(天平元年)8月10日に皇后の詔が発せられました。749年(天平勝宝元年)に夫・聖武天皇が娘・阿倍内親王(第46代・孝謙天皇)に譲位し、756年(天平勝宝8年)5月2日に聖武天皇が崩御し、760年(天平宝字4年)7月27日に光明皇后も亡くなりました。光明皇后は聖武天皇とともに仏教に深く帰依し、聖武天皇による国分寺・国分尼寺建立や大仏造立を助けるだけでなく、社会福祉にも尽力し、病院に当たる施薬院(せやくいん)や貧窮者・孤児の為の悲田院(ひでいん)などを設置しました。
本堂は安土桃山時代(江戸時代初期)の1601年(慶長6年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の側室で、豊臣秀頼の生母・淀殿(よどどの)の寄進によって再建されました。高欄の擬宝珠(ぎぼし)に「1601年(慶長6年)」の銘があり、本堂はかつて講堂と言われていたそうです。本堂には天平時代(奈良時代)・鎌倉時代などの古材が一部転用されています。本堂には厨子に本尊・十一面観音像(国宝)を安置しています。
法華寺見どころ

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