法隆寺金堂・法隆寺見どころ(修学旅行)

●法隆寺金堂は1897年(明治30年)12月28日に国の重要文化財、1951年(昭和26年)6月9日に国宝に指定されました。
●法隆寺金堂は飛鳥時代前期の607年(推古天皇15年)の法隆寺創建時に建立されたが、670年(天智9年)に焼失し、その後7世紀後半の飛鳥時代(593年~709年)後期に再建されたと言われています。法隆寺金堂は西院伽藍最古の建物です。1949年(昭和24年)の解体修理中に行われた壁画模写作業中に火災が発生し、壁画と柱が焼損しました。なお2004年(平成16年)の奈良文化財研究所による年輪年代測定(高精度デジタルカメラ)により、金堂・五重塔・中門などに使われているヒノキやスギは650年代末から690年代末に伐採されたことが分かりました。金堂の焼損した天井板2枚は667年(天智天皇6年)・668年(天智天皇7年)に伐採されたことが分かりました。
金堂などが建立されている法隆寺の西院伽藍には明治時代の半ば(19世紀末頃)から再建・非再建論争があったが、2004年(平成16年)の奈良文化財研究所による年輪年代測定により、創建時の若草伽藍(わかくさがらん)が焼失し、現在の西院伽藍が再建されたことが分かりました。なお日本最古の正史「日本書紀(にほんしょき)・奈良時代成立」の天智天皇9年(670年)4月30日条に「夜半之後、災法隆寺、一屋無余(あかつき、法隆寺に災(ひつ)けり、一屋(ひとつのいえ)も余ること無し)」と記されていました。
一般的に金堂は本堂で、本尊仏を安置する仏堂です。本堂は金堂・根本中堂(中堂)・仏殿などとも言われています。飛鳥時代から平安時代前半に創建された寺院では金堂と言われ、禅宗では仏殿と言われるとこが多いそうです。
●法隆寺金堂には須弥壇(しゅみだん)に釈迦三尊像が安置されています。釈迦三尊像の光背の裏面には622年(推古天皇30年)に聖徳太子が発病され、また薨去(こうきょ)されるにあたり、その病気平癒と成道(じょうどう)を願って太子等身の像が造られ、翌623年(推古天皇31年)に渡来系の仏師・鞍作止利(司馬鞍作首止利(しばのくらつくりのおびととり))によって完成したことなどが刻まれています。
聖徳太子は古墳時代の574年(敏達天皇3年)に第31代・用明天皇と第29代・欽明天皇の第3皇女で、皇后・穴穂部間人(あなほべのはしひとのひめみこ)の第2皇子として生まれました。聖徳太子は父母がいずれも第29代・欽明天皇を父とする異母兄妹で、兄弟婚によって生まれました。聖徳太子は幼少時から聡明で、仏法を尊んだと言われています。585年(用明天皇元年)に第30代・敏達天皇が崩御すると父・橘豊日皇子(第31代・用明天皇)が即位したが、 587年(用明天皇2年)に崩御しました。593年(崇峻天皇5年)に叔母で、史上初の女帝である第33代・推古天皇が即位すると皇太子・摂政になり、第30代・敏達天皇から第33代・推古天皇までの4代に仕えて権勢を振るった蘇我馬子(そがのうまこ)ととともに天皇を補佐しました。聖徳太子は内政・外交などの政治に尽力し、603年(推古天皇11年)に冠位十二階(かんいじゅうにかい)・604年(推古天皇12年)に十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)を制定したり、607年(推古天皇15年)に小野妹子(おののいもこ)を遣隋使(けんずいし)として派遣したりしました。また聖徳太子は仏教に深く帰依し、聖徳太子建立七大寺(法隆寺(斑鳩寺)・広隆寺(蜂丘寺)・法起寺(池後寺)・四天王寺・中宮寺・橘寺・葛木寺)と言われる法隆寺(ほうりゅうじ)・四天王寺(してんのうじ)などの寺院を創建したり、「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」を著したりして仏教の振興に尽くしました。聖徳太子は飛鳥時代の622年(推古天皇30年)2月22日に斑鳩宮(いかるがのみや)で亡くなりました。
法隆寺見どころ(西院伽藍)法隆寺見どころ(東院伽藍等)

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