法隆寺東院鐘楼・法隆寺見どころ

法隆寺東院鐘楼

●法隆寺東院鐘楼は1900年(明治33年)4月7日に国の重要文化財、1955年(昭和30年)2月2日に国宝に指定されました。
●法隆寺東院鐘楼は鎌倉時代前期(1185年~1274年)に建立されました。法隆寺東院鐘楼では舎利殿(しゃりでん)の舎利を奉出(ご開帳)する際や法要が行われる際に梵鐘が撞かれました。法隆寺東院鐘楼に吊られている梵鐘には内部に中宮寺(ちゅうぐうじ)と陰刻された奈良時代鋳造の梵鐘が吊られています。
一般的に鐘楼は梵鐘を吊るす堂塔です。鐘楼は金堂(こんどう)・塔・講堂・経蔵・僧坊・食堂(じきどう)とともに七堂伽藍(しちどうがらん)と言われています。鐘楼は寺院で時刻や非常を告げる施設として設けられ、梵鐘の響きは功徳(くどく)になるとされました。鐘楼は古くは金堂の背後に経蔵と対し、一般に太鼓を置いた鼓楼(ころう)に対して伽藍の両翼を建立されました。鐘楼は古代中国の様式を模し、上下2層からなる楼造(たかどのづくり)の法隆寺(ほうりゅうじ)西院伽藍の鐘楼(平安時代)が唯一残された古式の鐘楼遺構と言われています。その後法隆寺東院の鐘楼(鎌倉時代)のように下層が裾(すそ)広がりの袴腰造(はかまごしつくり)や東大寺(とうだいじ)の鐘楼(鎌倉時代)のように四隅に柱を立て、四方を吹き放した吹放(ふきはなし)などの鐘楼が現れました。鐘楼は現在、高い土台の上に四本柱を立て、四方を吹抜きにしたものが一般的です。なお鐘楼は鐘撞堂・釣鐘堂などとも言われています。
中宮寺は飛鳥時代(7世紀前半)に聖徳太子の母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の御願により、聖徳太子の宮居斑鳩宮(いかるがのみや)を中心に法隆寺と対照的な位置に創建されたとも、聖徳太子が母・穴穂部間人皇女の宮殿を寺に改めたとも言われています。中宮寺は当初現在の東方約400メートルに創建され、中宮寺が門跡寺院になった戦国時代(16世紀末頃)に現在の場所に移ったと言われています。中宮寺は葦垣宮(あしがきのみや)・岡本宮(おかもとのみや)・鵤宮(いかるがのみや)の3つの宮の中にあった宮に創建されたことから中宮寺と号したとも言われています。その後平安時代に衰退し、鎌倉時代に信如比丘尼(しんにょびくに)が再興し、1274年(文永11年)に法隆寺の法蔵内から聖徳太子ゆかりの天寿国繍帳(国宝)を発見しました。戦国時代に火災によって焼失し、法隆寺東院伽藍にある山内子院に避難しました。1602年(慶長7年)に尊智女王(そんちじょおう)が入寺してから尼門跡寺院になりました。
●法隆寺東院鐘楼は桁行三間・梁間二間で、入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。法隆寺東院鐘楼は袴腰付です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
法隆寺見どころ(西院伽藍)法隆寺見どころ(東院伽藍等)

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