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法隆寺夢殿・法隆寺見どころ(修学旅行・観光)
●法隆寺夢殿は1897年(明治30年)12月28日に国の重要文化財、1951年(昭和26年)6月9日に国宝に指定されました。
●法隆寺夢殿は法隆寺東院創立を記す「法隆寺東院縁起」によると奈良時代の739年(天平11年)に行信僧都(ぎょうしんそうず)が第31代・用明天皇の第2皇子・聖徳太子(しょうとくたいし)を偲び、聖徳太子一族の住居であった斑鳩宮(いかるがのみや)の旧地に建立した言われています。
行信僧都は生年・没年不詳です。737年(天平9年)に「法華経疏(ほつけきようしょ)4巻・伝聖徳太子著」などを法隆寺に寄進したと言われています。738年(天平10年)閏7月に修行者の生活の規律である戒律(かいりつ)に通じた律師(りっし)になり、僧尼を管理する僧綱(そうごう)として仏教行政に関わり、738年(天平10年)11年に法隆寺東院伽藍を創建しました。747年(天平19年)10月の正倉院(しょうそういん)文書に大僧都(だいそうず)と記され、それ以前に僧都の最上位・大僧都になっていたとも言われています。行信僧都は「仁王経疏(にんのうぎょうしょ)」・「最勝王経音義(さいしょうおうきょうおんぎ)」・「略集諸経律論等中翻梵語疏(りゃくしゅうしょぎょうりつろんとうちゅうほんぼんごしょ)」などを記しました。行信僧都は750年(天平勝宝2年)に亡くなったとも言われています。また754年(天平勝宝6年)に宇佐八幡宮主神(かんづかさ)・大神多麻呂(おおがのたまろ・大神田麻呂)と謀り、まじないで呪い殺す厭魅(えんみ)の罪によって下野(栃木)・薬師寺に左遷されたとも言われています。
聖徳太子は古墳時代の574年(敏達天皇3年)に第31代・用明天皇と第29代・欽明天皇の第3皇女で、皇后・穴穂部間人(あなほべのはしひとのひめみこ)の第2皇子として生まれました。聖徳太子は父母がいずれも第29代・欽明天皇を父とする異母兄妹で、兄弟婚によって生まれました。聖徳太子は幼少時から聡明で、仏法を尊んだと言われています。585年(用明天皇元年)に第30代・敏達天皇が崩御すると父・橘豊日皇子(第31代・用明天皇)が即位したが、 587年(用明天皇2年)に崩御しました。593年(崇峻天皇5年)に叔母で、史上初の女帝である第33代・推古天皇が即位すると皇太子・摂政になり、第30代・敏達天皇から第33代・推古天皇までの4代に仕えて権勢を振るった蘇我馬子(そがのうまこ)ととともに天皇を補佐しました。聖徳太子は内政・外交などの政治に尽力し、603年(推古天皇11年)に冠位十二階(かんいじゅうにかい)・604年(推古天皇12年)に十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)を制定したり、607年(推古天皇15年)に小野妹子(おののいもこ)を遣隋使(けんずいし)として派遣したりしました。また聖徳太子は仏教に深く帰依し、聖徳太子建立七大寺(法隆寺(斑鳩寺)・広隆寺(蜂丘寺)・法起寺(池後寺)・四天王寺・中宮寺・橘寺・葛木寺)と言われる法隆寺(ほうりゅうじ)・四天王寺(してんのうじ)などの寺院を創建したり、「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」を著したりして仏教の振興に尽くしました。聖徳太子は飛鳥時代の622年(推古天皇30年)2月22日に斑鳩宮(いかるがのみや)で亡くなりました。
斑鳩宮は日本最古の正史「日本書紀(にほんしょき)・奈良時代成立」によると601年(推古天皇9年)に造営が開始され、605年(推古天皇13年)に聖徳太子が移り住んだと言われています。聖徳太子は斑鳩宮の西方に法隆寺(ほうりゅうじ)・中宮寺(ちゅうぐうじ)・法輪寺(ほうりんじ)・法起寺(ほうきじ)を建立したと言われています。622年(推古天皇30年)に聖徳太子が亡くなると聖徳太子と蘇我馬子(そがのうまこ)の娘・刀自古郎女(とじこのいらつ)の子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)一族が住んでいました。628年(推古天皇36年)に第33代・推古天皇が崩御すると後継問題が発生し、643年(皇極天皇2年)に蘇我馬子の孫・蘇我入鹿(そがのいるか)によって焼き払われ、山背大兄王は法隆寺で自決に追い込まれたと言われています。
法隆寺見どころ(西院伽藍)・法隆寺見どころ(東院伽藍等)