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石上神宮出雲建雄神社拝殿・石上神宮見どころ
石上神宮出雲建雄神社拝殿
●石上神宮出雲建雄神社拝殿は1906年(明治39年)4月14日に国の重要文化財、1954年(昭和29年)3月20日に国宝に指定されました。
●石上神宮出雲建雄神社拝殿は鎌倉時代後期の1300年(正安2年)に永久寺(えいきゅうじ)の鎮守社・住吉神社(すみよしじんじゃ)の拝殿として建立されました。1890年(明治23年)に住吉神社の本殿が放火で焼失し、残された拝殿は荒廃したが、1910年(明治43年)に住吉神社の祭神を石上神宮の末社・猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)に合祀し、1914年(大正3年)に住吉神社の拝殿が石上神宮の摂社・出雲建雄神社の拝殿として移築されました。
永久寺は「永久寺置文(おきぶみ)・東京国立博物館蔵」や菅家本「諸寺縁起集(しょじえんぎしゅう)」によると平安時代後期の永久年間(1113年~1118年)に興福寺(こうふくじ)大乗院(だいじょういん)第2世院主・頼実が第74代・鳥羽天皇(とばてんのう)の勅願によって創建し、大乗院第3世院主・尋範が引き継いで伽藍を整備したと言われています。尋範は太政大臣・藤原師実(ふじわらのもろざね)の十七男で、大乗院第3世院主・興福寺第40世別当を歴任し、永久寺は大乗院の末寺や本地垂迹(ほんじすいじゃく)説による石上神宮の神宮寺としての性格を併せ持ち、大乗院・興福寺などの権威を背景に絶大なる勢力を誇ったと言われています。「永久寺置文」によると1136年(保延2年)に真言堂が建立され、吉祥堂・観音堂・常存院・御影堂・経蔵・鐘楼・温室(浴室)・四所明神社・玉賀喜社などが存在したと言われています。中世以来に真言修験道(しんごんしゅげんどう)を奉じ、当山派(とうざんは)大峰正大先達(おおみねしょうだいせんだつ)衆の一員になり、大峰山に入峰(にゆうぶ)しました。「太平記(たいへいき)」によると南北朝時代の1336年(延元元年・建武3年)に南朝初代で、第96代・後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が笠置城(かさぎじょう)の落城後に一時身を隠したとも言われています。安土桃山時代の1585年(天正13年)には56の坊・院が存在し、「大和名所図会(やまとめいしょずえ)・1791年(寛政3年)」によると浄土式回遊庭園の周辺に本堂・観音堂・八角多宝塔・大日堂・方丈・鎮守社や院家・子院が建ち並んでいました。永久寺は東大寺・興福寺・法隆寺に次ぐ待遇を受ける大寺で、江戸時代に「西の日光」とも言われました。しかし明治維新後の神仏分離令・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で荒廃し、寺宝が失われて廃絶しました。
●石上神宮出雲建雄神社拝殿は桁行五間・梁間一間で、切妻造(きりつまづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。出雲建雄神社拝殿は中央通路が唐破風造(からはふづくり)です。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
唐破風は弓形のように中央部を丸みをつけ、両端が反りかえった曲線状に造形した破風です。軒唐破風は屋根本体の軒先を丸みを帯びた造形した破風です。向唐破風は屋根本体とは別に出窓のように造形した破風です。
石上神宮