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金峯山寺四本桜・金峯山寺見どころ(修学旅行・観光)
金峯山寺四本桜
●金峯山寺四本桜は本堂(蔵王堂)前で、石の柵の中に植えられています。この場所では鎌倉時代末期に大塔宮(おおとうのみや)護良親王(もりよししんのう)が鎌倉幕府軍に攻撃され、陥落前に最後の酒宴を催したと言われています。四本桜近くには「大塔宮御陣地」と刻まれた石柱や室町時代中期の1471年(文明3年)作の銅燈籠(重要文化財)が建立されています。
大塔宮護良親王は鎌倉時代後期の1308年(延慶元年)に尊治親王(南朝初代で、第96代・後醍醐天皇(ごだいごてんのう))の第3皇子(第1皇子)として生まれたと言われています。1318年(文保2年)に梶井門跡(かじいもんぜき・三千院門跡(さんぜんいんもんぜき))に入寺し、1325年(正中2年)に門跡を継承して門主になり、1327年(嘉暦2年)に天台座主になりました。護良親王の天台座主就任には後醍醐天皇による鎌倉幕府討幕に延暦寺(えんりゃくじ)を取り込む為とも言われています。後醍醐天皇による2度目の鎌倉幕府討幕(元弘の変)の際、弟・尊澄法親王(そんちょうほうしんのう)とともに八王子に布陣したが、六波羅軍(鎌倉幕府軍)に敗れ、楠木正成(くすのきまさしげ)が籠もる赤坂城に逃れました。その後赤坂城が落城すると十津川・熊野などに逃れ、畿内の地侍などを組織しました。1332年(正慶元年・元弘2年)に還俗して護良親王と改名し、吉野で挙兵し、鎌倉幕府討幕の令旨を各地に送りました。河内信貴山に進軍し、赤松則村(あかまつのりむら)による六波羅探題(ろくはらたんだい)攻撃を援助しました。1333年(正慶2年・元弘3年)に後醍醐天皇が京都に戻ると征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になって兵部卿(ひょうぶきょう)に任じられました。その後室町幕府初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)と対立し、捕縛されて鎌倉に流罪となって幽閉され、1335年(建武2年)に北条時行(ほうじょうときゆき)が鎌倉へ侵攻した際、同年8月12日に尊氏の弟・足利直義(あしかがただよし)の家人・淵辺義博(ふちべよしひろ)によって殺害されました。
本堂(蔵王堂)は1592年(天正20年)頃に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の寄進によって再建されたとも言われています。扉金具には「天正19年(1592年)」の銘が残されています。本堂はかつて奈良時代の白鳳年間(7世紀後半)に修験道(しゅげんどう)の祖である役行者(えんのぎょうじゃ)・役小角(えんのおづの)が建立し、その後奈良時代に行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が改修したとも言われています。ただ平安時代以降に焼失と再建を度々繰り返したと言われています。なお本堂には内陣に秘仏である3体の蔵王権現立像(重要文化財)が本尊として安置されています。
金峯山寺見どころ