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大神神社拝殿・大神神社見どころ(修学旅行・観光)
大神神社拝殿
●大神神社拝殿は1921年(大正10年)4月30日に国の重要文化財に指定されました。
●大神神社拝殿は江戸時代前期の1664年(寛文4年)に江戸幕府第4代将軍・徳川家綱(とくがわいえつな)が再建しました。大神神社は三輪山をご神体とする為に本殿がなく、拝殿を通して三輪山を参拝します。
一般的に拝殿は神社で祭祀・拝礼を行なう為の社殿です。拝殿は本殿前に建立されるが、拝殿がない神社や拝殿が2つある神社などがあります。拝殿が2つある場合、手前の拝殿が外拝殿、奥の拝殿が内拝殿と言われます。また拝殿の中央が土間で、通り抜けられる場合には割拝殿と言われます。
徳川家綱は1641年(寛永18年)9月7日に江戸幕府第3代将軍・徳川家光と側室・お楽の方(宝樹院)の間に長男として江戸城本丸で生まれました。幼名は竹千代(たけちよ)で、父・徳川家光が生まれた時から後継ぎに決めました。乳母・春日局に育てられた徳川家光は江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠と母・江(崇源院)に寵愛された弟・徳川忠長と世継争いがあった為と言われています。1644年(正保元年)に家綱と命名され、1645年(正保2年)に元服し、従三位(じゅさんみ)・権大納言(ごんだいなごん)に任命されました。1651年(慶安4年)4月20日に父・徳川家光が亡くなると8月18日に10才で江戸城で将軍宣下を受け、江戸幕府第4代将軍に就任し、内大臣にも任じられました。幼少将軍であったことから叔父・保科正之や父・徳川家光の遺老とも言われる酒井忠勝・松平信綱・阿部忠秋らに補佐され、治世29年間で幕府諸制度を整備しました。末期養子の禁を緩和し、殉死禁止令を出し、証人(人質)を廃止し、武断政治から文治政治に政策を切り替えました。また質素倹約を重んじ、武芸学問を奨励しました。ちなみに1663年(寛文3年)の父・徳川家光13回忌に日光へ社参したが、歴代の将軍と異なり、一度も京都に上洛しませんでした。徳川家綱は幼少の頃から病弱で、30半ばに至っても世継ぎがなかったため将軍継嗣問題が憂慮されていたが、1680年(延宝8年)5月に病に倒れ、同年6月4日に40歳で亡くなりました。
●大神神社拝殿は桁行九間(約17メートル)・梁間四間(約8メートル)で、切妻造(きりつまづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。拝殿は正面に軒唐破風(のきからはふ)付きです。なお拝殿は白木造り(しらきづくり)の質実剛健(しつじつごうけん)な建物です。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
唐破風は弓形のように中央部を丸みをつけ、両端が反りかえった曲線状に造形した破風です。軒唐破風は屋根本体の軒先を丸みを帯びた造形した破風です。向唐破風は屋根本体とは別に出窓のように造形した破風です。
大神神社