蓮長寺本堂・蓮長寺見どころ(修学旅行・観光)

蓮長寺本堂

●蓮長寺本堂は1920年(大正9年)4月15日に国の重要文化財に指定されました。
●蓮長寺本堂は江戸時代前期の1653年(承応2年)に大和郡山城主・豊臣秀長(とよとみひでなが)建立の西岸寺(さいがんじ)本堂を移して再建されました。本堂は柱・貫などに極彩色の文様が施され、広縁や内陣・脇陣の鏡天井に迦陵頻伽(かりょうびんが)・竜・鳳風(ほうおう)の彩色画が描かれています。
豊臣秀長は戦国時代(室町時代後期)の1540年(天文9年)4月8日に竹阿弥(ちくあみ)と仲(なか)の子、関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の異父弟として生まれました。譜代家臣がいなかった豊臣秀吉に早くから仕え、斎藤龍興(さいとうたつおき)の戦いで城の留守居役を務め、1573年(天正元年)に豊臣秀吉が浅井氏(あざいし)を滅ぼして長浜城(ながはまじょう)城主となると城代を務めました。1575年(天正3年)に羽柴の名字を与えられました。1577年(天正5年)からの中国攻め(ちゅうごくぜめ)で豊臣秀吉が織田信長(おだのぶなが)から総司令官に任命されると頭角を現しました。1582年(天正10年)に明智光秀(あけちみつひで)による本能寺の変で織田信長が自刃するとその後の山崎の戦い(やまざきのたたかい)・1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)・1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)に豊臣秀吉の片腕として従軍しました。1585年(天正13年)の紀州征伐(きしゅうせいばつ)後に紀伊・和泉などの約64万石余の所領を与えられ、1585年(天正13年)の四国攻め(しこくぜめ)後に100万石に加増され、大和郡山城(こおりやまじょう)を居城にしました。1586年(天正14年)に大友宗麟(おおともそうりん)が豊臣秀吉のもとに上洛した際、豊臣秀吉は大友宗麟をもてなし、「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候、いよいよ申し談ずべし」と述べ、豊臣秀吉の補佐役として権限の一部が委託されていました。1587年(天正15年)の九州平定(きゅうしゅうへいてい)で日向(ひゅうが)方面の総大将になり、戦後に従二位(じゅにい)・権大納言(ごんだいなごん)に叙任されると大和大納言と称されました。1590年(天正18年)1月頃から病気が悪化し、小田原征伐(おだわらせいばつ)に従軍できず、1591年(天正19年)2月15日に大和郡山城で病死しました。
●蓮長寺本堂は桁行約19.9メートル・梁間約18.6メートルで、入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。本堂は向拝(こうはい)一間です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。
本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
向拝は寺院・神社建築で仏堂・社殿の屋根の中央が前方に張り出した部分です。向拝は仏堂・社殿の入口に階段上に設けられることから階隠(はしかくし)とも言われています。
蓮長寺

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