談山神社十三重塔・談山神社見どころ(修学旅行・観光)

談山神社十三重塔

●談山神社十三重塔は1900年(明治33年)4月7日に国の重要文化財に指定されました。
●談山神社十三重塔は戦国時代(室町時代後期)の1532年(享禄5年)に再建されました。十三重塔はかつて飛鳥時代後期の678年(白鳳7年)に藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の長子・定恵(じょうえ)が父・藤原鎌足の供養の為に創建したと言われています。
定恵は643年(皇極天皇2年)に父・藤原鎌足と母・鏡王女(かがみのおおきみ)の長男・中臣真人(なかとみのまひと)として生まれました。653年(白雉4年)5月に遣唐大使・吉士長丹(きしのながに)に従って遣唐使(けんとうし)として唐(中国)に渡り、長安(ちょうあん)懐徳坊にある慧日道場に住し、三蔵法師(さんぞうほうし)とも言われる玄奘(げんじょう)の弟子・神泰法師に師事して学びました。唐(中国)内を遊学して内経外典(ないきょうげてん)に通じたと言われています。665年(天智天皇4年)9月に劉徳高(りゅうとくこう)とともに朝鮮半島の百済(くだら)を経て帰国したが、同年12月23日に23歳で大和国大原(奈良県高市郡明日香村小原)で亡くなったと言われています。百済人によって毒殺されたとも言われています。定恵には第38代・天智天皇(てんぢてんのう)のご落胤とも言われる伝承や談山神社の前身・妙楽寺(みょうらくじ)を創建し、父・藤原鎌足の遺骸を摂津国安威山(大阪府)から改葬して、妙楽寺に十三重塔を建立したという伝承が残されています。
藤原鎌足(中臣鎌足)は「藤氏家伝」によると飛鳥時代前期の614年(推古天皇22年)に父・中臣御食子と母・大伴智仙娘の子として大和国高市郡藤原(奈良県橿原市)で生まれたとも言われています。「大鏡」によると常陸国(茨城県)鹿島に生まれたとも言われています。早くから中国の史書に関心を持ち、遣隋使として留学し、隋・唐の32年間に渡って留学した学問僧・南淵請安が開いた塾で儒教を学び、蘇我入鹿とともに秀才とされました。日本最古の正史「日本書紀・720年(養老4年)完成」によると644年(皇極天皇3年)に中臣氏の家業である祭祀を司る祭官に就くことを固辞し、摂津国三島の別業に退き、密かに蘇我稲目・蘇我馬子・蘇我蝦夷・蘇我入鹿の4代に渡って政権を掌握する蘇我氏打倒の意志を固めたと言われています。第38代・天智天皇となる中大兄皇子に接近し、645年(大化元年)の乙巳の変で中大兄皇子・蘇我倉山田石川麻呂らと板蓋宮で蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷を自殺に追いやりました。647年(大化3年)の新冠位制度で大錦冠を授与され、649年(大化5年)に左大臣・阿部倉梯麻呂が亡くなり、蘇我倉山田石川麻呂が失脚すると勢力を伸ばし、654年(白雉5年)頃に大紫冠に昇格したと言われています。なお藤原鎌足は「藤原」の姓を賜った翌日の669年(天智天皇8年)11月14日に亡くなりました。
●談山神社十三重塔は三間(さんげん)十三重塔婆(じゅうさんとうば)の檜皮葺(ひわだぶき)です。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
談山神社

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