吉水神社書院・吉水神社見どころ(修学旅行・観光)

吉水神社書院

●吉水神社書院は1915年(大正4年)3月26日に国の重要文化財に指定されました。
●吉水神社書院は義経の間が室町時代前期(1333年~1392年)、玉座の間が桃山時代(1573年~1614年)に建立されました。書院は日本最古の書院で、初期書院造りの傑作と言われています。書院には義経潜居の間・後醍醐天皇玉座の間・太閤秀吉花見の間があり、南朝の古文書や武具・秀吉の花見に使われた楽器など100点を超える宝物が残されています。
源義経は1159年(平治元年)に父・源義朝と母・常盤御前の九男・牛若丸として生まれました。1160年(平治2年)に父・源義朝が平治の乱で敗死すると4歳で母・常盤御前と別れ、鞍馬寺の東光坊阿闍梨蓮忍に預けられました。しかし僧侶になることを拒否して鞍馬寺を出奔し、奥州藤原氏宗主で、鎮守府将軍・藤原秀衡を頼って平泉に向かい、1180年(治承4年)に兄・源頼朝が平氏打倒の為に挙兵するとそれに呼応し、平泉から鎌倉に駆け付けました。1183年(寿永2年)に代官として畿内近国に派遣され、1184年(1184年(寿永3年)の一ノ谷の戦いなどで活躍し、1185年(文治元年)に平氏を壇の浦で滅ぼしました。その後兄・源頼朝と対立し、叔父・源行家と結んで後白河法皇(第77代・後白河天皇)による源頼朝追討宣旨を得て挙兵するが失敗し、愛妾の白拍子・静御前とともに吉野、更に武蔵坊弁慶とともに藤原秀衡を頼って逃れたが、1189年(文治5年)に兄・源頼朝の圧力に屈した藤原秀衡の子・藤原泰衡に襲撃され、衣川館で自刃しました。なお源義経の首は酒に浸され、鎌倉に送られたそうです。
第96代・後醍醐天皇は1288年(正応元年)11月26日に大覚寺統の第91代・後宇多天皇と五辻忠子の第2皇子として生まれました。1302年(正安4年)に親王宣下を受け、1304年(嘉元2年)に大宰府の長官・大宰帥になり、帥宮と言われました。1308年(徳治3年)に持明院統の第95代・花園天皇が即位すると皇太子になり、1318年(文保2年)に第95代・花園天皇が譲位すると第96代・後醍醐天皇に即位しました。即位後は後宇多法皇が院政を行っていたが、1321年 (元亨元年) に後宇多法皇の院政を停止し、天皇の親政を始めました。吉田定房・北畠親房らの人材を集めて記録所を再興し、政治改革を始めました。また鎌倉幕府打倒を図ったが、1324年(正中元年)の正中の変・1331年(元弘元年)の元弘の乱に失敗し、1332年(正慶元年)に隠岐に流されました。その後隠岐を脱出し、1333年(元弘3年)に鎌倉幕府が滅ぶと京都に戻り、建武の新政を開始しました。しかし室町幕府初代将軍・足利尊氏と対立し、京都を脱出して奈良・吉野に南朝を樹立し、南北朝時代が始まりました。第96代・後醍醐天皇は1339年(延元4年・暦応2年)9月19日に退勢を挽回できずに悲運の内に吉野で崩御しました。
豊臣秀吉は1537年(天文6年)3月17日に織田信長の足軽(百姓)・木下弥右衛門と美濃の鍛冶・関兼貞の娘・なか(天瑞院)の間に生まれました。先ず今川氏の家来で、引馬城(ひくまじょう)の支城・頭陀寺城城主・松下之綱に仕え、1554年(天文23年)頃から戦国大名・織田信長に仕えました。1561年(永禄4年)に浅野長勝の養女・北政所(ねね)と恋愛結婚しました。その後数々の戦功を重ねて頭角を現し、1573年(天正元年)に浅井氏が滅亡すると長浜城城主になりました。1582年(天正10年)に明智光秀が織田信長に謀反を起こした本能寺の変後、山崎の戦いで明智光秀を破り、京都の支配権を掌握しました。1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破りました。その後四国・九州・関東・奥羽を平定し、1590年(天正18年)に天下を統一を成し遂げました。ちなみに1585年(天正13年)に関白、翌1586年(天正14年)に豊臣姓を賜って、太政大臣になりました。その後唐入りを目指し、1592年(天正20年)から文禄・慶長の役が始まりました。なお豊臣秀吉は1598年(慶長3年)9月18日に伏見城内で亡くなりました。
●吉水神社書院は懸造(かけづくり)で、西面に軒唐破風(のきからはふ)付きです。書院は桁行約30.2メートル・梁間約13.9メートルで、北面切妻造(きりづまづくり)段違・南面入母屋造(いりもやづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。
懸造は崖などの高低差が大きい場所に仏堂などを建立する建築様式です。懸造は舞台造・崖造などとも言われています。懸造は平安時代中期には既に行われていたとも言われています。観音霊場では岩を観音菩薩の降臨する霊場・補陀落山に見立てていたとも言われています。
唐破風は弓形のように中央部を丸みをつけ、両端が反りかえった曲線状に造形した破風です。軒唐破風は屋根本体の軒先を丸みを帯びた造形した破風です。向唐破風は屋根本体とは別に出窓のように造形した破風です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
吉水神社

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