- Home
- 吉野水分神社本殿・吉野水分神社見どころ(修学旅行・観光)
吉野水分神社本殿・吉野水分神社見どころ(修学旅行・観光)
吉野水分神社本殿
●吉野水分神社本殿は1901年(明治34年)3月27日に国の重要文化財に指定されました。
●吉野水分神社本殿は江戸時代前期の1605年(慶長10年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)が建部光重(たけべみつしげ)を奉行として再建しました。本殿は主祭神に天之水分大神(あめのみくまりのおおかみ)、配祀神に高皇産霊神(たかみむすびのかみ)・少名彦神(すくなひこなのかみ)・御子神(みこがみ)・天津彦火瓊瓊杵命(あまつひこひこほのににぎのみこと)・玉依姫命(たまよりひめのみこと)・天萬栲幡千幡比咩命(あめよろずたくはたちはたひめのみこと)を祀っています。
豊臣秀頼は1593年(文禄2年)8月29日に関白・豊臣秀吉と側室・淀殿(茶々)の第2子として生まれました秀頼は秀吉57歳の時の子で、健康な成長を願って、一旦捨てた形にして家臣・松浦重政が拾い上げました。秀頼は幼名は拾丸で、乳母は宮内卿局・右京大夫局・正栄尼でした。秀吉は秀頼誕生直後に甥で、関白・豊臣秀次の娘と婚約させようとしたが、1595年(文禄4年)に秀次の関白職を奪って自刃させ、秀頼の継嗣としての地位を確定させました。秀頼は秀吉とともに伏見城に住んでいたが、1598年(慶長3年)に秀吉が死去すると秀頼は家督を継ぎ、秀吉の遺命によって大坂城に移り住みました。秀頼は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後に摂津・河内・和泉を知行する一大名になったが、1603年(慶長8年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康の孫、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の子・千姫と結婚しました。しかし1614年(慶長19年)の方広寺鐘銘事件によって大坂の陣が勃発し、1615年(慶長20年)6月4日に秀頼は淀殿らとともに自害しました。
天之水分神(天之水分大神)は日本最古の歴史書「古事記(こじき)・712年(和銅5年)編纂」によると速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)と速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)の子とされています。ちなみに速秋津日子神・速秋津比売神からは沫那藝神(あはなぎのかみ)・沫那美神(あはなみのかみ)・頬那藝神(つらなぎのかみ)・頬那美神(つらなみのかみ)・天之水分神・国之水分神(くにのみくまりのかみ)・天之久比奢母智神(あめのくひざもちのかみ)・国之久比奢母智神(くにのくひざもちのかみ)が生まれ、天之水分神は国之水分神と一対の神とされています。天之水分神は神名の通り、水の分配を司っています。また天之水分神は水の分配を司ることから祈雨にも信仰され、田の神や山の神とも結び付きました。更に「みくまり」が「みこもり」と解され、子授け・安産の神としても信仰されました。
●吉野水分神社本殿は中央が春日造(かすがづくり)、左右が流造(ながれづくり)の三殿を横に繋げた特異な形式になっており、正面の3箇所に破風(はふ)があります。本殿は桁行九間・梁間二間で、中央一間が隅木入春日造、左右が流造の檜皮葺(ひわだぶき)です。
春日造は切妻造(きりづまづくり)の妻入(つまいり)で、正面に庇(ひさし)である階隠(はしかくし)を設け、屋根上(棟)に置き千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ)が付けられています。春日造は仏教建築の影響を受け、奈良時代中期に現れたとも言われています。
流造は神社建築の一形式です。流造は正面入口にあたる屋根の一方(前流れ)が長く延びた形式です。流造は伊勢神宮(いせじんぐう)に代表される神明造(しんめいづくり)から発展し、奈良時代末期から平安時代に成立し、全国に広がりました。流造では正面(桁行)の柱間が1間(柱2本)の場合には一間社流造、3間(柱4本)の場合には三間社流造、5間(柱6本)の場合には五間社流造になります。
唐破風は弓形のように中央部を丸みをつけ、両端が反りかえった曲線状に造形した破風です。軒唐破風は屋根本体の軒先を丸みを帯びた造形した破風です。向唐破風は屋根本体とは別に出窓のように造形した破風です。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
吉野水分神社