法隆寺の歴史は推古天皇・聖徳太子が寺院を創建したのが起源
法隆寺の時代別年表と重要人物
法隆寺は用明天皇が自らの病気平癒を祈願する為に発願したが、その後用明天皇が崩御し、607年(推古天皇15年)に推古天皇と用明天皇の皇子・聖徳太子が遺志を継いで寺院(若草伽藍)を創建したのが起源です。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。
【法隆寺が建立されている場所】
- 法隆寺が建立されている場所は日本最古の正史「日本書紀(にほんしょき)・720年(養老4年)完成」によると飛鳥時代前期の601年(推古天皇9年)に第31代・用明天皇(ようめいてんのう)の皇子・聖徳太子(しょうとくたいし)が斑鳩宮(いかるがのみや)を造営し、605年(推古天皇13年)に飛鳥から移り住んだと言われています。622年(推古天皇30年)に聖徳太子が49歳で亡くなると聖徳太子と蘇我馬子(そがのうまこ)の娘・刀自古郎女(とじこのいらつ)の子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)一族が住みました。なお斑鳩宮跡はその後法隆寺の東院伽藍になります。
【法隆寺の起源・始まり】
- 法隆寺は607年(推古天皇15年)に第33代・推古天皇(すいこてんのう)と聖徳太子が用明天皇の遺志を継ぎ、斑鳩宮に隣接して若草伽藍を創建したのが起源と言われています。用明天皇の為に造仏され、法隆寺の金堂東の間に安置される銅造薬師如来(やくしにょらい)坐像の光背(こうはい)銘によると用明天皇が自らの病気平癒を祈願する為に発願したが、実現しないまま崩御し、その意志を継いで推古天皇と聖徳太子が寺院(法隆寺)と仏像(薬師如来)を完成させたことが記されています。
- 623年(推古天皇31年)に仏師・鞍作止利(くらつくりのとり)が聖徳太子の為に金銅釈迦三尊(しゃかさんぞん)像を造仏したと言われています。金銅釈迦三尊は法隆寺の金堂中の間に安置されています。
【飛鳥時代(592年~710年)の出来事】
- 628年(推古天皇36年)に推古天皇が崩御すると後継問題が発生し、643年(皇極天皇2年)に蘇我馬子の孫・蘇我入鹿(そがのいるか)が斑鳩宮を焼き払い、山背大兄王は法隆寺で自決に追い込まれたと言われています。
- 670年(天智天皇9年)に法隆寺が焼失しました。日本最古の正史「日本書紀(にほんしょき)・720年(養老4年)完成」の670年(天智天皇9年)4月30日条に「夜半之後、災法隆寺、一屋無余」と記されています。この「日本書紀」の記述については真偽を巡って論争があたが、1939年(昭和14年)に行われた若草伽藍の発掘調査により、南北に並んだ塔跡・金堂跡が見つかり、1983年(昭和58年)に若草伽藍の西限を示す柵列遺構が発掘されたことから先ず若草伽藍が焼失し、その後西院伽藍が再建されたと言われています。また若草伽藍と西院伽藍の同時併存も難しいことも分かりました。なお若草伽藍は西院伽藍の南東方向に位置し、北側に金堂、南側に塔が南北に配置された四天王寺(してんのうじ)式伽藍配置でした。ただ金堂・塔などの堂塔は真南に面して建立されておらず、中心軸が北西方向に約20度ずれていました。西院伽藍では堂塔がほぼ南側を正面として建立されています。
- 飛鳥時代後期(7世紀後半)に金堂・五重塔・中門などが再建され、710年(和銅3年)頃までに西院伽藍が整備されたとも言われています。年輪年代測定によると金堂・五重塔・中門に使用されている木材は650年代末から690年代末に伐採されたことが分かりました。また「資財帳」によると693年(持統天皇7年)に法隆寺で仁王会(にんのうえ)が行われ、天蓋(てんがい)などが施入されていることから金堂は693年(持統天皇7年)には既に再建されていたとも言われています。また「資財帳」によると711年(和銅4年)に五重塔初層に安置されている塑像(そぞう)群が完成していることから五重塔は711年(和銅4年)には既に再建されていたとも言われています。
【奈良時代(710年頃~794年頃)の出来事】
- 739年(天平11年)に行信僧都(ぎょうしんそうづ)が聖徳太子を偲び、斑鳩宮跡である東院伽藍に夢殿を建立した言われています。
- 768年(神護景雲2年)に大講堂で吉祥悔過(きちじょうけか)が初めて行われたと言われています。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の出来事】
- 925年(延長3年)に大講堂・鐘楼が落雷によって焼失しました。その後990年(正暦元年)に大講堂、平安時代中期(1005年~1020年)に鐘楼が再建されました。
- 1035年(長元8年)に西大門が建立されたと言われています。
- 1069年(延久元年)に絵師・秦致貞(はたのむねさだ)が絵殿に「聖徳太子絵伝」を描きました。
- 1078年(承暦2年)に金堂の吉祥天(きっしょうてん)像・毘沙門天(びしゃもんてん)像が完成したと言われています。
- 1121年(保安2年)に聖霊院が建立されたと言われています。同年から聖霊院で聖徳太子の遺徳を偲ぶお会式(おえしき)が行われるようになりました。
- 1132年(天承2年)に仏師・康勝(こうしょう)が聖徳太子の母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后の為に造仏され、金堂西の間に安置されている金銅阿弥陀如来(あみだにょらい)座像の造仏を発願したと言われています。その後金銅阿弥陀如来は鎌倉時代に完成したとも言われています。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の出来事】
- 1250年(建長2年)に西円堂が再建されました。
- 1284年(弘安7年)に東室の南端部分が聖霊院に改築されました。
- 1318年(文保2年)に上御堂が再建されたと言われています。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の出来事】
- 1435年(永享7年)に南大門が焼失しました。その後1438年(永享10年)に南大門が西大門を移して再建されたと言われています。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事】
- 1606年(慶長11年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)が修築を行ったと言われています。
- 1694年(元禄7年)に江戸幕府5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)の生母・桂昌院(けいしょういん)の発願によって修築が行われたと言われています。
【明治時代以降(1868年頃~)の出来事】
- 1993年(平成5年)に法隆寺はユネスコ世界文化遺産(法隆寺地域の仏教建造物)に登録されました。
【法隆寺の開基とされる聖徳太子】
聖徳太子は574年(敏達天皇3年)に第31代・用明天皇と第29代・欽明天皇の第3皇女で、皇后・穴穂部間人の第2皇子として生まれました。幼少時から聡明で、仏法を尊んだと言われています。585年(用明天皇元年)に第30代・敏達天皇が崩御すると父・橘豊日皇子(第31代・用明天皇)が即位したが、 587年(用明天皇2年)に崩御しました。593年(崇峻天皇5年)に叔母で、史上初の女帝である第33代・推古天皇が即位すると皇太子・摂政になって補佐しました。聖徳太子は内政・外交などの政治に尽力し、603年(推古天皇11年)に冠位十二階、604年(推古天皇12年)に十七条憲法を制定したり、607年(推古天皇15年)に小野妹子を遣隋使として派遣したりしました。また仏教に深く帰依し、聖徳太子建立七大寺(法隆寺(斑鳩寺)・広隆寺(蜂丘寺)・法起寺(池後寺)・四天王寺・中宮寺・橘寺・葛木寺)を創建したり、「三経義疏」を著したりして仏教の振興に尽くしました。聖徳太子は622年(推古天皇30年)に亡くなりました。
【法隆寺 備考】
*参考・・・法隆寺(歴史・見どころ・・・)ホームページ