元興寺の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

元興寺(Gango-ji Temple)

元興寺の歴史を時代別年表にまとめ

元興寺の歴史を簡単にまとめています。元興寺は588年(崇峻天皇元年)に蘇我馬子が甥・崇峻天皇が即位した際、氏寺として法興寺を創建したのが起源です。日本最古の本格的な寺院で、地名から飛鳥寺と言われるようになりました。(時代別年表・重要人物下記参照)

元興寺見どころ

【崇仏派と排仏派】

  • 蘇我馬子(そがのうまこ)は仏教を信仰し、587年(用明天皇2年)に排仏派の物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼしました。なお蘇我馬子は584年(敏達天皇13年)に百済から渡来した鹿深臣の石像一体、佐伯連の仏像一体をもらい受け、その後仏殿を建立して仏教を広めました。

【元興寺の起源・始まり】

  • 元興寺は588年(崇峻天皇元年)に蘇我馬子が甥で、第32代・崇峻天皇(すしゅんてんのう)が即位した際、蘇我氏の氏寺として法興寺(ほうこうじ)を飛鳥に創建したのが起源とも言われています。ちなみに法興寺は6世紀末から7世紀初頭に創建されたとも、日本最古の正史「日本書紀(にほんしょき)・720年(養老4年)完成」によると596年(推古天皇4年)に創建されたとも言われています。法興寺は日本最古の本格的な寺院で、その後地名から飛鳥寺(あすかでら)と言われるようになりました。

【飛鳥時代(592年~710年)の歴史・出来事】

  • 645年(大化元年)の大化の改新(たいかのかいしん)より、蘇我氏宗本家は滅亡したが、飛鳥寺(法興寺)は大官大寺(だいかんだいじ・大安寺(だいあんじ))・川原寺(かわらでら)・薬師寺(やくしじ)とともに四大寺として、朝廷の庇護を受けました。
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【奈良時代(710年頃~794年頃)の歴史・出来事】

  • 710年(和銅3年)に平城京に遷都されると718年(養老2年)に飛鳥寺(法興寺)も平城京に移り、寺号を元興寺に改めました。元興寺は「仏法元興之場、聖教最初の地」の言葉に由来しています。
  • 奈良時代に元興寺は三論宗(さんろんしゅう)と法相宗(ほっそしゅう)の道場として栄え、東大寺(とうだいじ)・興福寺(こうふくじ)と並ぶ大寺院でした。元興寺は寺域が南北4町(約440メートル)・東西2町(約220メートル)に及び、現在の奈良町(ならまち)と言われる地域の大部分が境内でした。

【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】

  • 平安時代に律令制度が崩壊して官大寺がなくなると徐々に衰退し、元興寺は権門寺院だった興福寺や東大寺の支配を受けました。平安時代中期の1035年(長元8年)に記された「堂舎損色検録帳」によると金堂などの伽藍が荒廃し、見る影もなかったそうです。
  • 平安時代末期に末法思想(まっぽうしそう)が広がり、阿弥陀信仰(あみだしんこう)が隆盛すると曼荼羅(まんだら)を祀る堂は極楽院(ごくらくいん)と言われ、発展しました。極楽院には奈良時代に往生人智光法師(ちこうほうし)が感得した浄土曼荼羅(智光曼荼羅)が祀られていました。また元興寺では中門に安置され、中門観音と言われていた十一面観音(じゅういちめんかんのん)像も信仰されていました。

【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】

  • 鎌倉時代に元興寺の伽藍が解体され、堂塔が分散しました。鎌倉時代前期の1246年(寛元4年)には五重塔の4層目・5層目と相輪(そうりん)が失われ、南大門・鐘楼が大破していたと言われています。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】

  • 1451年(宝徳3年)に土一揆による焼き討ちが起こり、小塔院・金堂などの主要伽藍や浄土曼荼羅が焼失しました。その後金堂が再建されたが、1472年(文明4年)に金堂は大風によって倒壊しました。その後元興寺は曼荼羅を祀る極楽院(極楽坊)・五重塔を中心とした観音堂・小塔院の3つに分裂しました。
  • 室町時代に極楽院は興福寺の塔頭(たちゅう)大乗院(だいじょういん)に支配され、僧侶は己心寺(大安寺)門流(真言律の西大寺流)とされました。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

  • 江戸時代に極楽院から西大寺直門として多くの重役を輩出しました。
  • 1707年(宝永4年)に分裂した小塔院に虚空蔵堂(本堂)が建立されました。
  • 1859年(安政6年)に分裂した観音堂の観音堂・五重塔が焼失しました。1930年(昭和5年)に観音堂が再建されました。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

  • 明治維新後に極楽院の門流が途絶え、無住化しました。
  • 1932年(昭和17年)から真言律宗(しんごんりっしゅう)大本山・宝山寺(ほうざんじ)の実質支配となって中興されました。
  • 1955年(昭和30年)に極楽院は元興寺極楽坊、1977年(昭和52年)に元興寺に更に改めました。
  • 1998年(平成10年)に元興寺はユネスコ世界文化遺産(古都奈良の文化財)に登録されました。

【元興寺の開基とされる蘇我馬子】

蘇我馬子は551年(欽明天皇13年)頃に蘇我稲目の子として生まれました。第30代・敏達天皇が即位すると大臣に任命され、その後第31代・用明天皇、第32代・崇峻天皇、第33代・推古天皇の4代に仕え、54年にわたって権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築きました。蘇我馬子は排仏派の大連・物部守屋を滅ぼし、東漢直駒に命じて崇峻天皇を暗殺させ、妹・堅塩媛が生んだ推古天皇を即位され、摂政・聖徳太子とともに政治を指導し、その後聖徳太子が亡くなると実権を握って専横を極めました。蘇我馬子は元興寺の前身である法興寺も創建しました。ちなみに蘇我馬子は家が飛鳥川の畔にあり、庭中の小池に小島があったことから島大臣とも言われました。蘇我馬子には蝦夷・善徳・河上娘・刀自古郎女・法提郎女などの子供がおり、刀自古郎女は聖徳太子、法提郎女を田村皇子(第34代・舒明天皇)の妃になりました。なお蘇我馬子は626年(推古天皇34年)5月20日に亡くなりました。

【元興寺 備考】
*参考・・・元興寺(歴史・見どころ・・・)ホームページ

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