宝山寺歴史-修学旅行・観光ポイント

宝山寺歴史の簡単まとめ

宝山寺歴史を簡単にマトメてポイント解説します。宝山寺は655年(斉明天皇元年)に修験道の祖である役行者・役小角が修験道場として開山したとも言われています。宝山寺は当初、都史陀山大聖無動寺とも言われていたそうです。なお宝山寺歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。

【前史(蓮台野)】

★宝山寺(寳山寺)が建立されている生駒山(いこまやま)は古来から神や仙人などが住む山として、信仰されていました。生駒山には巨岩や奇石、そして幾つかの窟から成る般若窟(はんにゃくつ)などがあります。般若窟は修験道(しゅげんどう)の祖である役行者(えんのぎょうじゃ)・役小角(えんのおづの)が「梵文般若経(ぼんぶんはんにゃきょう)」を書写して納め、真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)が若い頃に修行したとも言われています。なお般若窟 には弥勒菩薩(みろくぼさつ)・弁財天(べんざいてん)が祀られています。

【宝山寺創建(起源・由来)】

★宝山寺は伝承によると飛鳥時代の655年(斉明天皇元年)に役行者・役小角が修験道場として開山したとも言われています。宝山寺は当初、都史陀山大聖無動寺(としださんだいしょうむどうじ)とも言われていたそうです。

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【奈良時代(710年頃~794年頃)の出来事・事件】

★奈良時代後期から平安時代前期に弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)が修行したとも言われているそうです。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事・事件】

★1678年(延宝6年)に真言宗の僧・宝山湛海律師(ほうざんたんかいりっし)が宝山寺を再興し、歓喜天(かんぎてん)を祀ったと言われています。宝山湛海律師は江戸・永代寺(えいだいじ)に入寺し、歓喜天に対する修法が優れていました。大火によって焼失した永代寺の八幡宮(はちまんぐう)復興の際、資金や資材が集まる祈祷で効験を発揮しました。その後京都に歓喜院(かんきいん)を建立して独立し、訪れた円忍律師から教えを受け、大阪堺・神鳳寺(大鳥神社)で円忍律師から戒を授かり、真の仏法を求めることに目覚め、道場での行だけでなく、大和葛城山(かつらぎさん)山麓の山林で千日不出の木食行(もくじきぎょう)を続け、行を完成するにふさわしい山として、生駒山の存在を念じていた不動明王(ふどうみょうおう)から暗示されました。1678年(延宝6年)10月10日、宝山湛海律師は数人の弟子とともに生駒山に入り、村人や郡山藩家老らの援助や協力により、翌1679年(延宝7年)1月に五間四面(桁五間・梁間五間)の仮本堂が建立され、宝山湛海律師は念願の八万枚護摩(はちまんまいごま)を修しました。なお宝山湛海律師は関白・近衛家熙(このえいえひろ)の腫れ物を祈祷によって治したとも言われ、その霊験が第113代・東山天皇(ひがしやまてんのう)や江戸幕府6代将軍・徳川家宣(とくがわいえのぶ)にも伝わり、朝廷や徳川将軍家などの祈願を行ったと言われています。また地元の郡山藩主・柳沢家からの祈願も行ったと言われています。その後約10年で伽藍がほぼ完成したと言われています。
★1684年(天和4年)に観音堂が建立されました。
★1686年(貞享3年)に大阪の医師・谷村昌安玄仙を施主をして、聖天堂(天堂)が建立されました。
★1688年(貞享5年)に郡山藩家老・梶金平一雄と梶民部一貞父子が施主になり、大坂の日下利左衛門一法が援助し、大和国富雄の庄屋大神和家を奉行として、本堂が建立されました。本堂は宝山湛海律師作の不動明王を祀っています。
★1769年(明和6年)に開山堂が建立されました。開山堂は宝山湛海律師を祀っています。
★1805年(文化2年)に京都の豪商・角倉与一が聖天堂の外拝殿を建立しました。
★1844年(天保15年)に観音堂が再建されました。
★1856年(安政3年)に京都の中田氏の寄進により、奥の院本堂が護摩道場として再建されました。
★江戸時代に宝山寺は商売の神として、大阪商人に信仰されるようになりました。宝山寺は生駒山(いこまさん)とも、生駒の聖天さんとも言われています。

【明治時代以降(1868年頃~)の出来事・事件】

★1877年(明治10年)に聖天堂(天堂)が再建されました。聖天堂は内陣に大聖歓喜天の厨子(ずし)、その背後の厨子に荒神(こうじん)・十一面観音(じゅういちめんかんのん)・毘沙門天(びしゃもんてん)を祀っています。同年に聖天堂の中拝殿も建立されました。
★1882年(明治15年)に獅子閣(重要文化財)が上棟され、1884年(明治17年)に落慶しました。獅子閣は擬洋風建築の客殿で、建築面積92.1平方メートルの2階建、寄棟造の浅瓦葺です。
★1900年(明治33年)に朝日宝塔が建立されました。朝日宝塔は銅製の五重宝塔で、各層に本尊・虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)や大日如来(だいにちにょらい)・金剛薩た菩薩(こんごうさったぼさつ)などの仏像が納められています。
★1918年(大正7年)に日本最初のケーブルカーである生駒鋼索鉄道(近鉄生駒鋼索線)が敷設されました。なお1914年(大正3年)に近畿日本鉄道(近鉄)の前身である大阪電気軌道(大軌)が上本町駅(大阪上本町駅) から奈良駅(近鉄奈良駅)間を開業させたが、生駒トンネルの開削費用などによって財政が窮乏し、宝山寺が資金を都合したと言われています。
★1957年(昭和32年)に多宝塔が建立されました。多宝塔は厨子に入った愛染明王(あいぞめにょうおう)を祀っています。
★1964年(昭和39年)に開山堂の唐破風(からはふ)が増築されました。
★1967年(昭和42年)に大師堂が建立されました。大師堂は高祖である弘法大師・地蔵菩薩(じぞうぼさつ)を祀っています。
★1978年(昭和53年)に中興開基300年大法要記念事業として、文殊堂が建立されました。文殊堂は獅子(しし)に乗った文殊菩薩(もんじゅぼさつ)を祀っています。

【役行者・役小角:宝山寺開山】

役行者・役小角は634年(舒明天皇6年)に父・大角と母・白専女との間に奈良御所市茅原(大和国葛城上郡茅原)で生まれたとも言われています。誕生地には吉祥草寺が創建されています。その後17歳で奈良・元興寺で孔雀明王の呪法を学び、葛城山・熊野・大峯で山岳修行を続け、吉野金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、日本古来の山岳信仰や山修行と外来の密教(仏教)などを融合させた修験道の基礎を築きました。しかし弟子・韓国連広足が師・役行者の能力を妬み、鬼神を使役とした妖術を使って人を惑わしていると朝廷に讒訴したことから699年(文武3年)に伊豆に流罪になったが、701年(大宝元年)1月に大赦となって故郷・御所市茅原に戻り、6月7日に大阪箕面・天上ヶ岳で68歳で亡くなったと言われています。

【宝山寺 備考】
*参考・・・宝山寺(アクセス・見どころ・・・)ホームページ

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