春日大社の歴史は武甕槌命を御蓋山の浮雲峰に勧請したのが起源
春日大社の時代別年表と重要人物
春日大社は約1,300年前に鹿島神宮の武甕槌命を浮雲峰に勧請したのが起源とも、また768年(神護景雲2年)に藤原永手が武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神を祀る本殿を建立したのが起源とも言われています。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。
【春日大社が建立されている場所一帯】
- 春日大社が建立されている場所一帯は古くから御蓋山(みかさやま・春日山(かすがやま))を中心とする神地だったと言われています。御蓋山は神山とされ、平安時代に朝廷から狩猟伐木禁止の太政官符(だいじょうかんぷ)が出され、現在まで原生林として保たれています。
【春日大社の起源・始まり】
- 春日大社は奈良時代頃、約1,300年前に常陸国・鹿島神宮(かしまじんぐう)の武甕槌命(たけみかづちのみこと)を御蓋山(みかさやま)の山頂・浮雲峰(うきぐものみね)に勧請(かんじょう)したのが起源とも言われています。また「古社記」によると768年(神護景雲2年)11月9日に左大臣・藤原永手(ふじわらのながて)が第48代・称徳天皇の勅命により、鹿島神宮の武甕槌命、下総国・香取神宮(かとりじんぐう)の経津主命(ふつぬしのおおみこと)、河内国・枚岡神社(ひらおかじんじゃ)の天児屋根命(あめのこやねのみこと)と比売神(ひめがみ)を祀る本殿を建立したのが春日大社の起源とも言われています。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】
- 849年(嘉祥2年)または850年(嘉祥3年)に春日祭(かすがさい・かすがまつり)とも、申祭(さるまつり)とも言われる例大祭が始まったとも言われています。春日祭は京都府京都市の賀茂社(かもしゃ(上賀茂神社(かみがもじんじゃ)・下鴨神社(しもがもじんじゃ))の葵祭(あおいまつり)・京都府八幡市の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の石清水祭(いわしみずさい)とともに三大勅祭に数えられました。
- 850年(嘉祥3年)に武甕槌命・経津主命が最高位である神階・正一位(しょういちい)を授かりました。
- 927年(延長5年)に「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」に「大和国添上郡 春日祭神四座」と記され、名神大社(みょうじんたいしゃ)に列せられました。
- 940年(天慶3年)に天児屋根命が最高位である神階・正一位を授かりました。
- 1038年(長暦2年)に藤原頼通(ふじわらのよりみち)が瑠璃(るり)燈籠を寄進しました。
- 1135年(保延元年)に若宮神社が建立され、天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)が祀られました。天押雲根命は春日大社の第3殿に祀られている天児屋根命と第4殿に祀られている比売神の子神とされています。翌1136年(保延2年)に藤原忠通(ふじわらのただみち)が五穀豊穣・万民安楽を祈願する為に春日若宮おん祭(かすがわかみやおんまつり)を始めました。
- 1136年(保延2年)に藤原忠通が国内で2番目に古いと言われる石燈籠・柚木(ゆのき)型石燈籠を寄進しました。
- 平安時代に藤原氏が隆盛すると春日大社も隆盛しました。また春日大社は藤原氏の氏寺・興福寺(こうふくじ)との関係も深く、興福寺が実権を握っていた時期もありました。なお興福寺は669年(天智天皇8年)に藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の妻・鏡大王(かがみのおおきみ)が夫・鎌足の病気平癒の祈願の為、鎌足発願の本尊・釈迦三尊(しゃかさんぞん)像や四天王(してんおう)像などを安置する山階寺(やましなでら)を山背国山階陶原(京都市山科区)に創建したのが起源と言われています。710年(和銅3年)の平城京遷都とともに鎌足の子・藤原不比等(ふじわらふひと)が現在の場所に移しました。
【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】
- 南北朝時代に宝庫・移殿・竈殿・南門・内侍門・清浄門・慶賀門が建立されたと言われています。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
- 1613年(慶長18年)に中門・東御廊・西御廊・北御廊が建立されたと言われています。
- 1863年(文久3年)に本殿4棟(第1殿・第2殿・第3殿・第4殿)が式年造替(しきねんぞうたい)で建立されました。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
- 1871年(明治4年)に社名を春日神社に改め、1946年(昭和21年)に再び春日大社に改めました。
- 1998年(平成10年)に春日大社はユネスコ世界文化遺産(古都奈良の文化財)に登録されました。
【春日大社の社殿を建立した藤原永手】
藤原永手は714年(和銅7年)に藤原北家の祖・藤原房前と美努王の娘・牟漏女王の次男として生まれました。ただ長男・鳥養が夭折したことから実質的な長男でした。737年(天平9年)に藤原四兄弟(藤原武智麻呂・藤原房前・藤原宇合・藤原麻呂)が相次いで亡くなると従兄弟である藤原南家の藤原乙麻呂・藤原式家の藤原広嗣とともに従六位上から従五位下に昇叙しました。同母弟・藤原八束が第45代・聖武天皇から寵遇されて不遇だったが、藤原仲麻呂から抜擢され、第46代・孝謙天皇(第48代・称徳天皇)から重用されるようになりました。764年(天平宝字8年)の藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)の際に孝謙上皇・道鏡側に就いて活動し、その功績から第48代・称徳天皇(第46代・孝謙天皇)に重用されて左大臣になりました。称徳天皇の崩御後に藤原良継・藤原百川らと謀って、称徳天皇が寵愛した道鏡を排除し、白壁王を第49代・光仁天皇に擁立し、770年(宝亀元年)にその功績から正一位に昇叙しました。なお藤原永手は771年(宝亀2年)に亡くなりました。
【春日大社 備考】
*参考・・・奈良世界遺産・春日大社(アクセス・見どころ・・・)ホームページ