談山神社の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

談山神社

談山神社の歴史を時代別年表で紹介。

談山神社の歴史を簡単にまとめています。談山神社は寺伝によると678年(天武天皇7年)に藤原氏の祖・藤原鎌足の長男で、僧・定恵が父の墓を摂津国安威から奈良大和に移し、十三重塔を建立したのが起源と言われています。なお談山神社は藤原鎌足を主祭神に祀っています。なお談山神社歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。

【前史(藤原鎌足)】

★藤原鎌足(ふじわらのかまたり・中臣鎌足(なかとみのかまたり))は614年(推古天皇22年)に中臣御食子(なかとみのみけこ)の子として生まれたとも言われています。中国の史書に関心を持ち、遣隋使(けんずいし)として留学した学問僧・南淵請安(みなぶちのしょうあん)が開いた塾で学び、蘇我入鹿(そがのいるか)とともに秀才とされました。644年(皇極天皇3年)に中臣氏の家業である祭祀を司る祭官に就くことを固辞し、摂津国三島の別業(なりどころ)に退き、蘇我稲目(そがのいなめ)・蘇我馬子(そがのうまこ)・蘇我蝦夷(そがのえみし)・蘇我入鹿の4代に渡って政権を掌握する蘇我氏打倒の意志を固めたと言われています。飛鳥法興寺(ほうこうじ)で行われた蹴鞠会(けまりえ)で出会った中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、第38代・天智天皇(てんぢてんのう))に接近し、645年(大化元年)に談山神社の本殿裏山で極秘の談合を行なって、蘇我氏打倒を計画しました。645年(大化元年)の乙巳の変(いっしのへん)で中大兄皇子・蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)らとともに蘇我入鹿を板蓋宮(いたぶきのみや)の第35代・皇極天皇(こうぎょくてんのう)の前で暗殺し、蘇我蝦夷を自殺に追いやりました。647年(大化3年)の新冠位制度で大錦冠(だいきんかん)を授与され、649年(大化5年)に左大臣・阿部倉梯麻呂(あべのうちのまろ)が亡くなり、蘇我倉山田石川麻呂が失脚すると勢力を伸ばし、654年(白雉5年)頃に人臣の最高位である大紫冠(だいしかん)に昇格したと言われています。藤原鎌足は「藤原」の姓を賜った翌日の669年(天智天皇8年)11月14日に亡くなりました。なお多武峰(とうのみね)は極秘の談合により、談峯・談い山・談所が森などと言われています。

【談山神社創建(起源・由来)】

★談山神社は寺伝によると678年(天武天皇7年)に藤原氏の祖・藤原鎌足(中臣鎌足)の長男で、僧・定恵(じょうえ・定慧)が父・藤原鎌足の墓を摂津国安威(大阪府高槻市)から奈良大和に移し、十三重塔を建立したのが起源と言われています。定慧は唐(中国)から帰国し、父・藤原鎌足の遺骨の一部を多武峯山頂に改葬し、十三重塔と講堂を建立して妙楽寺(みょうらくじ)と称したとも言われています。

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【飛鳥時代(592年~710年)の歴史・出来事】

★680年(天武天皇9年)に講堂(神廟拝殿)が創建され、十三重塔を神廟として妙楽寺と号したと言われています。
★701年(大宝元年)に十三重塔東側に藤原鎌足像を安置する方三丈の神殿(祠堂・本殿)が創建され、聖霊院と号したと言われています。

【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】

★898年(昌泰元年)に談山神社の裏山・御破裂山が初めて鳴動したと言われています。御破裂山は国に大きな災いが起こる前兆として鳴動するようになり、898年(昌泰元年)から1607年(慶長12年)に合計35回も鳴動したと言われています。
★926年(延長4年)に国内最古となる惣社が創建され、第60代・醍醐天皇(だいごてんのう)から勅号「談山権現」を賜りました。談山神社では妙楽寺・聖霊院・惣社が一体化して、神仏習合(しんぶつしゅうごう)が進みました。
★956年(天暦10年)に妙楽寺(談山神社)は天台宗(てんだいしゅう)の大本山・比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)の末寺になりました。
★970年(天禄元年)に摂政・藤原伊尹(ふじわらのこれただ)が三昧堂(権殿)を創建しました。藤原伊尹の実弟・如覚(みょうかく・藤原高光(ふじわらのたかみつ))が妙楽寺(談山神社)に入り、増賀上人を招聘などすると藤原氏の繁栄とともに発展しました。
★1081年(永保元年)に法相宗(ほっそしゅう)の大本山・興福寺(こうふくじ)によって焼き討ちされました。興福寺は669年(天智天皇8年)に藤原鎌足の妻・鏡大王(かがみのおおきみ)が山背国山階陶原(京都市山科区)に創建し、藤原氏の氏寺になったが、宗派が異なっていたこともあり、領地などを巡って度々対立しました。
★1108年(天仁元年)に興福寺によって浄土院・食堂・経蔵・惣社・多宝塔・灌頂堂・五大堂・浄土堂などや近くの鹿路の村々が焼き討ちされました。
★1173年(承安3年)に興福寺によって十三重塔など全域が焼き討ちされました。
★平安時代末期に妙楽寺(談山神社)は天台宗の三門跡に数えられた京都・青蓮院(しょうれんいん)の末寺になりました。

【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】

★1185年(文治元年)に十三重塔が再建されました。
★1208年(承元2年)に金峯山寺(きんぷせんじ)によって焼き討ちされました。
★1227年(安貞元年)に興福寺によって焼き討ちされました。
★1228年(安貞2年)に興福寺によって焼き討ちされました。
★鎌倉時代に曹洞宗(そうとうしゅう)の本山・永平寺(えいへいじ)2世・孤雲懐奘大和尚が妙楽寺(談山神社)に参学しました。

【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】

★1351年(正平6年・観応2年)に失火によって全焼したと言われています。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】

★1435年(永享7年)に南北朝合一後の南朝の遺臣が多武峰を根拠地とし、1437年(永享9年)から始まった越智氏・箸尾氏による室町幕府への大和永享の乱に巻き込まれ、1438年(永享10年)に室町幕府の大軍によって攻められ、全山が焼失しました。兵火を逃れる為にご神体・大織冠尊像(藤原鎌足像)を一時、飛鳥・橘寺(たちばなでら)に遷したが、3年後の1441年(嘉吉元年)に多武峰に戻されました。
★1469年(応仁3年)に内紛によって焼失しました。
永正年間(1504年~1521年)に権殿が再建されました。権殿は旧・常行堂でした。
★1506年(永正3年)に赤沢朝経と対立する十市氏・越智氏・箸尾氏などの大和国人一揆に巻き込まれ、赤沢軍によって焼き討ちされました。
★1520年(永正17年)に拝殿(重要文化財)・東透廊(重要文化財)・西透廊(重要文化財)・楼門が再建されました。拝殿は旧・護国院で、聖霊院の拝所でした。
★1532年(享禄5年)に十三重塔(重要文化財)が再建されました。十三重塔は現存する世界唯一の木造十三重塔です。
★1559年(永禄2年)から大和国の戦国大名・松永久秀(まつながひさひで・松永弾正(まつながだんじょう))に対する多武峰合戦などが行われました。

【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】

★1585年(天正13年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が妙楽寺(談山神社)を大和郡山城下に移すように命じ、翌1586年(天正14年)に寺基が移って新多武峰・新峰・新寺などと言われるようになりました。ただご神体・大織冠尊像(藤原鎌足像)は多武峰に残り、本峰・本寺・古寺などと言われるようになりました。
★1588年(天正16年)に豊臣秀吉の異父弟で、大和郡山城城主・豊臣秀長(とよとみひでなが)の体調回復を祈願し、ご神体・大織冠尊像(藤原鎌足像)も大和郡山城下に移されたが、豊臣秀長の体調が悪化したことから1590年(天正18年)に妙楽寺(談山神社)は大和郡山城下から多武峰に帰山を許されました。ただ翌1591年(天正19年)に豊臣秀長が亡くなりました。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

★江戸時代前期に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の命により、3,000石余の朱印領が認められました。
★1619年(元和5年)に本殿が造替されました。また同年に東宝庫(重要文化財)・西宝庫(重要文化財)・閼伽井屋(重要文化財)も再建されました。
★1668年(寛文8年)に本殿が造替され、旧・本殿は東殿(恋神社)として移築されました。また同年に神廟拝所(重要文化財)が再建されました。神廟拝所は旧・講堂でした。
★1734年(享保19年)に本殿が造替され、旧・本殿は惣社として移築されました。
★寛政8年(1796年)に本殿が造替され、旧・本殿は百済寺の本堂として移築されました。
★嘉永3年(1850年)に現在の本殿(重要文化財)が造替され、旧・本殿は東大寺の塔頭(たちゅう)・東南院の持仏堂として移築されました。本殿は旧・聖霊院で、大織冠社・多武峰社とも言われていました。
★江戸時代末期に33坊の子院、6坊の承仕坊、6,000石の寺領がありました。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

★明治維新後の神仏分離令・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、僧侶は還俗し、妙楽寺から談山神社に改められました。多くの子院・承仕坊は廃寺になりました。
★1874年(明治7年)に近代社格制度で別格官幣社に列せられました。
★1883年(明治16年)に阿弥陀三尊(あみださんぞん)像が安倍文殊院(あべもんじゅいん)に移されました。
★1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に列せられました。

【定恵(定慧):談山神社開山】

定恵(定慧)は643年(皇極天皇2年)に藤原氏の祖・藤原鎌足(中臣鎌足)の長男・中臣真人として生れました。653年(白雉4年)に留学僧として、吉士長丹を遣唐大使とする遣唐使とともに唐(中国)に渡り、長安・懐徳坊にある慧日道場に住し、三蔵法師玄奘の弟子・神泰法師のもとで学びました。唐への留学中の夢告に従って、父の遺骸を摂津国阿威山から多武峰に改葬したとも言われています。665年(天智天皇4年)9月に唐の使節・劉徳高ら250余人の大使節団とともに百済を経て帰国し、同年12月に23歳で大原(奈良県高市郡明日香村小原)で亡くなったと言われています。百済人によって毒殺されたとも言われています。なお定恵(定慧)は「元亨釈書」によると714年(和銅7年)亡くなったとも言われています。

【談山神社 備考】
*参考・・・談山神社(アクセス・見どころ・・・)ホームページ

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