興福寺追儺会-2025年の節分は2月2日(日程時間・・・)
興福寺追儺会
興福寺追儺会(日程・・・)を紹介しています。追儺会は例年節分(立春の前日)に行われています。追儺会では先ず国宝である東金堂で無病息災・延命長寿の為の薬師悔過の法要が行われます。法要終了後、6匹の鬼(赤鬼・青鬼・黒鬼・3匹の子鬼)を毘沙門天が退治する鬼追式が行われます。鬼追式終了後、福豆まきが行なわれます。(詳細下記参照)
【興福寺追儺会2024 日程時間(要確認)】
興福寺追儺会2024は2024年(令和6年)2月3日(土曜日)に行われます。15:00から薬師悔過法要が関係者のみで行われます。五重塔の保存修理の為、鬼追い式・福豆撒き・福豆配布は行われません。なお2月1日から勧進所で福豆が販売されています。
*参考・・・興福寺ホームページ
●奈良の寺院・神社では節分・豆まきなどの行事が行われています。
奈良節分・豆まき2025
【興福寺追儺会 アクセス・マップ】
場所・・・奈良県奈良市登大路町48
最寄り駅・バス停・・・近鉄奈良駅(徒歩約7分)
アクセス路線は次の通りです。
*近鉄奈良線
*JR奈良駅から市内循環バスの場合、県庁前(徒歩すぐ)
路線・時刻表・運賃チェック
【興福寺追儺会 歴史・簡単概要】
興福寺追儺会(ついなえ)・鬼追式(おにおいしき)は例年節分(立春の前日)に行われています。追儺会では厄除け・招福を祈願します。
追儺会では東金堂(国宝)に安置されている本尊・薬師三尊(やくしさんぞん)像(重要文化財)の前で、無病息災・延命長寿の為の薬師悔過(やくしけか)の法要が行われます。法要終了後、6匹の鬼(赤鬼・青鬼・黒鬼・3匹の子鬼)を毘沙門天(びしゃもんてん)が退治する鬼追式が行われます。鬼追式終了後、福豆まきが行なわれます。ちなみに赤鬼は貪欲(どんよく)、青鬼は怒り(いかり)、黒鬼は愚痴(ぐち)を表し、貪欲・怒り・愚痴は人間の善根を毒する三毒とされています。
- 節分は元々季節が変わる節目で、立春・立夏・立秋・立冬の前日を差していたが、江戸時代以降は立春の前日だけを指す場合が多くなりました。節分には邪気悪霊(鬼)が外から入ってくるのを防ぐ為、「鬼は外・福は内」と言いながら福豆を撒き、年の数だけ福豆を食べて厄除けをします。豆撒きは平安時代中期の第59代・宇多天皇(867年~931年)の時代に鞍馬山の鬼が都を荒らしたことから毘沙門天のお告げにより、鬼の穴を祈祷で封じ、鬼の目を炒り豆で打ちつぶしたということに由来しているそうです。なお豆などの穀物には魔除けの呪力や生命力を持つという穀霊が宿っているとも言われています。ちなみに豆は鬼の目を表す「魔目(まめ)」から鬼を滅する「魔滅」を意味するようになったそうです。
- 追儺は平安時代初期から大晦日に宮中で行われている鬼払いの儀式です。追儺は鬼やらい・鬼遣らい・儺(な)やらい・鬼儺・大儺 (たいだ)・駆儺 (くだ) などとも言われています。追儺では黄金四つ目の面を付け、右手に矛、左手に楯を持った方相氏(ほうそうし)などが大内裏の中を「鬼やらう」と大声を掛けながら鬼を追い払って回りました。ただその後方相氏は追い払う側から追い払われる側に変わったそうです。なお追儺は第42代・文武天皇 (697年~707年)の時代に中国から伝わったとも言われています。
- 毘沙門天は天部の仏神で、多聞天とも言われています。毘沙門天は北方守護の武神とされ、東方の持国天・南方の増長天・西方の広目天とともに四天王に数えられています。また毘沙門天は室町時代から恵比寿・大黒天・弁財天・寿老人・福禄寿・布袋とともに七福神に数えられ、招福と勝負の神とされています。
- 東金堂は1415年(応永22年)に再建されました。東金堂は本尊・銅造薬師三尊像(薬師如来坐像・日光菩薩立像・月光菩薩立像)・文殊菩薩坐像・維摩居士坐像・十二神将立像・四天王立像などを安置しています。東金堂は正面約25.6メートル・側面約14.1メートルです。
●興福寺の歴史(創建から現在)を紹介しています。
興福寺歴史
●興福寺の見どころ(東金堂・五重塔など)を紹介しています。
興福寺見どころ
【興福寺 歴史・簡単概要】
興福寺(こうふくじ)は669年(天智天皇8年)に藤原氏の始祖・藤原鎌足(ふじわらのかまたり・中臣鎌足(なかとみのかまたり))の妻・鏡大王(かがみのおおきみ)が夫・藤原鎌足の病気平癒の祈願の為に藤原鎌足発願の本尊・釈迦三尊像や四天王などを安置する山階寺(やましなでら)を山背国山階陶原(京都市山科区)に創建したのが起源と言われています。672年(天武天皇元年)の藤原京遷都とともに山階寺も移され、地名から厩坂寺(うまやさかでら)と言われました。その後710年(和銅3年)の平城京遷都とともに藤原鎌足の子・藤原不比等(うじわらのふひと)が現在の場所に移し、興福寺と名付けました。720年(養老4年)に藤原不比等が亡くなると造興福寺仏殿司が設けられ、国家事業として伽藍が整備され、奈良時代に四大寺、平安時代に七大寺に数えられ、比叡山延暦寺(えんりゃくじ)とともに南都北嶺と称されました。最盛期には一乗院(いちじょういん)・大乗院(だいじょういん)など塔頭や付属寺院が百か院以上を数えたそうです。また平安時代に春日大社(かすがたいしゃ)の実権も手に入れ、大和国を領するほどになり、鎌倉時代・室町時代に鎌倉幕府・室町幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任に当たり、江戸時代には興福寺・春日大社の知行地が2万1千余石と定められました。なお興福寺は1998年(平成10年)世界遺産条約により、ユネスコ世界文化遺産(古都奈良の文化財)のひとつに登録されました。
興福寺は法相宗の大本山です。
*参考・・・奈良世界遺産・興福寺(アクセス・見どころ・・・)ホームページ
【興福寺追儺会 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
奈良世界遺産・興福寺(アクセス・見どころ・・・)情報