當麻寺の見所ランキング-修学旅行・観光で見学必見
當麻寺の見所は曼荼羅堂・東塔・西塔・金堂・講堂です。
當麻寺の見所ランキングを紹介します。見所は1位が奈良時代に建立された前身堂を起源とする曼荼羅堂(国宝)、2位が奈良時代末期の東塔(国宝)と平安時代初期の西塔(国宝)の三重塔、3位が金堂(重要文化財)です。なお国宝・重要文化財など修学旅行・観光で見るべき名所を紹介しています。(詳細下記参照)
- 1位-奈良時代の前身堂を起源とし、850年以上の歴史がある曼荼羅堂(国宝)
- 2位-奈良時代末期の東塔(国宝)と平安時代初期の西塔(国宝)
- 3位-平安時代末期に再建され、800年以上の歴史がある金堂(重要文化財)
- 番外-鎌倉時代後期に再建され、700年以上の歴史がある講堂(重要文化財)
【奈良時代の前身堂を起源とし、850年以上の歴史がある曼荼羅堂(国宝)】
曼荼羅堂は奈良時代(710年~794年)に建立された前身堂を起源とするが、棟木に平安時代(794年~1185年)後期の墨書があり、改造から850年以上の歴史があると言われています。曼荼羅堂は境當麻寺最大の名所です。なお曼荼羅堂は1898年(明治31年)12月28日に国の重要文化財、1952年(昭和27年)3月29日に国宝に指定されました。
- 曼荼羅堂の概略-曼荼羅堂(本堂)は仁王門を入ってまっすぐ進み、金堂と講堂の間を通り抜けた先に建立されています。曼荼羅堂は正面から拝観するのがおすすめです。正面から拝観すると山内最大の建物である曼荼羅堂の大きさ(桁行7間(正面約21.02メートル)・梁間6間(奥行約18.06メートル))を感じることができます。曼荼羅堂は高い基壇の上に建立されていることから実際の大きさよりも大きく感じるかもしれません。曼荼羅堂は内陣・礼堂(外陣)に分かれ、内陣は天平時代の様式を残し、外陣はその内陣を取り込む形で拡張されたと言われ、その歴史を感じるのもいいかもしれません。曼荼羅堂には高さ約5メートルの厨子(国宝)に本尊・當麻曼荼羅(重要文化財)が安置されています。厨子は鎌倉幕府初代将軍・源頼朝が寄進した須弥壇(国宝)上に安置され、須弥壇には「源」の文字が見られます。なお東向きに建立された曼荼羅堂(西堂)では例年4月14日に練供養会式が行われ、夕日とともに中将姫が長さ約110メートルの来迎橋を渡り、極楽浄土に迎えられた現身往生(来迎引接)が再現されています。(要確認)
- 曼荼羅堂の歴史-曼荼羅堂は1957年(昭和32年)から1960年(昭和35年)に行われた解体修理によると奈良時代(710年~794年)に建立され、平安時代初期(794年~1185年)頃に曼荼羅を安置する為に改造され、平安時代後期の1161年(永暦2年)に更に改造されたと言われています。その後鎌倉時代(1185年~1333年)前期の1268年(文永5年)に屋根の修理が行われたと言われました。
- 曼荼羅堂の仏像-曼荼羅堂は織殿観音と言われている十一面観音立像(重要文化財)・中将姫坐像(二十九歳像)・来迎阿弥陀如来立像(奈良県の重要文化財)・役行者三尊坐像(役行者・前鬼・後鬼)なども安置しています。
- 曼荼羅堂の重要人物-中将姫は奈良時代(710年~794年)に右大臣・藤原豊成と紫の前の子として生まれたとされています。母は5歳の時に亡くなり、6歳の時に照夜の前が継母になりました。中将姫は美しく、聡明で、幼少の頃から観音さまを深く信仰したと言われています。9歳の時に第46代・孝謙天皇に召し出され、百官の前で琴を演奏して賞賛を受けるが、継母に憎まれていじめれを受けるようになります。13歳の時に三位中将の内侍になり、14歳の時に父が諸国巡視の旅に出掛けると継母が家臣に殺害を命じたが、極楽往生を願って読経するのを憐れみ、雲雀山の青蓮寺に隠しました。父が改心して取り戻し、16歳の時に第47代・淳仁天皇から後宮へ入るように望まれるが、當麻寺に出家して當麻曼荼羅を蓮の糸を使って一夜で織り上げたと言われています。29歳の時に現れた生身の阿弥陀如来と二十五菩薩とともに極楽浄土に旅立ったと言われています。
【奈良時代末期の東塔(国宝)と平安時代初期の西塔(国宝)】
東塔(三重塔)は奈良時代(710年~794年)末期に建立され、その後焼失などを免れたことから1,200年以上の歴史があります。西塔(三重塔)は平安時代(794年~1185年)初期に建立され、1,100年以上の歴史があります。なお東塔・西塔は1897年(明治31年)12月28日に国の重要文化財、1952年(昭和27年)3月29日に国宝に指定されました。
- 東塔・西塔の概略-東塔・西塔は双方を見比べながら拝観するのがおすすめです。見比べながら拝観すると総高約24.4メートルの東塔と総高約25.2メートルの西塔の高さの違いが分かるかもしれません。東塔・西塔はともに相輪が九輪ではなく、八輪であることも確認しましょう。じっくり眺めると東塔の水煙が珍しい魚骨状、西塔の水煙が未敷蓮華を表しているなど様式の違いが分かります。
- 東塔・西塔の歴史-東塔は奈良時代(710年~794年)末期に建立されたと言われています。西塔は平安時代(794年~1185年)初期に建立されたと言われています。西塔では1911年(明治44年)から1914年(大正3年)に修理が行われ、鎌倉時代(1185年~1333年)前期の1219年(建保7年)の修理の際に収められた舎利容器が心柱頂部から発見されました。ちなみに西塔では2016年(平成28年)から修理が行われ、瓦が葺き替えたり、基壇が改修されたりしました。
- 東塔・西塔の仏像-東塔は本尊・金剛界大日如来、西塔は本尊・胎蔵界大日如来を祀っています。
【平安時代末期に再建され、800年以上の歴史がある金堂(重要文化財)】
金堂は平安時代(794年~1185年)末期に再建され、800年以上の歴史があります。本尊・弥勒仏坐像は飛鳥時代(592年~710年)末期に造仏され、1,300年以上の歴史があると言われています。なお金堂は1899年(明治32年)4月5日に国の重要文化財に指定されました。
- 金堂の概略-金堂は正面から拝観するのがおすすめです。正面から拝観すると金堂の大きさ(桁行5間(正面約12.10メートル)・梁間4間(奥行約9.54メートル))を感じることができます。ちなみに當麻寺が曼荼羅信仰の寺として信仰される以前は金堂が當麻寺の中心的な堂塔でした。當麻寺の歴史の変遷を感じるのもいいかもしれません。
- 金堂の歴史-金堂は平安時代(794年~1185年)後期の1180年(治承4年)の兵火で焼失した講堂の火災に類焼し、1184年(寿永3年)に再建され、鎌倉時代(1185年~1333年)後期の1326年(正中3年)に大規模に修理されたと言われています。
- 金堂の仏像-金堂は国内最古の塑像とも言われている本尊・像高約2.197メートルの弥勒仏坐像(国宝)を安置しています。弥勒仏坐像はその形式から當麻寺創建時の7世紀末頃に造仏されたとも言われています。また弥勒仏坐像を守護する四天王(重要文化財)・不動明王も安置しています。四天王の内、多聞天像を除く、持国天立像・増長天立像・広目天立像は日本国内最古の乾漆像とも言われています。
【鎌倉時代後期に再建され、700年以上の歴史がある講堂(重要文化財)】
講堂は鎌倉時代(1185年~1333年)後期に再建され、700年以上の歴史があります。講堂は平安時代(794年~1185年)末期の焼失から100年以上経過後に再建されました。なお講堂は1899年(明治32年)4月5日に国の重要文化財に指定されました。
- 講堂の概略-講堂は本堂(国宝)前で、参道を挟んで金堂(重要文化財)と対照の位置に建立されています。講堂は桁行7間(約17.87メートル)・梁間4間(約12.44メートル)で、近付くとその大きさを感じることができます。講堂は現在本瓦葺だが、かつて金堂とともに厚板を葺いた木瓦葺だったと言われ、歴史を感じさせます。なお講堂は丈六(像高約227.0センチ)の阿弥陀如来坐像(重要文化財)を安置しています。阿弥陀如来坐像はふくよかな円満相で、豊かな肉付きと流麗な衣文の流れが平安時代(794年~1185年)末期の気品を表しているとも言われています。
- 講堂の歴史-講堂は野垂木(のだるき)の墨書によると平安時代(794年~1185年)末期の1180年(治承4年)に平家乱入による兵火で焼失し、鎌倉時代(1185年~1333年)後期の1303年(乾元2年)に再建されました。講堂床下からは焼土層が確認され、1180年(治承4年)に焼失したことが裏付けられました。
- 講堂の仏像-講堂は本尊・阿弥陀如来坐像(重要文化財)や伝阿弥陀如来坐像(重要文化財)・妙幢菩薩立像(重要文化財)・地蔵菩薩立像(重要文化財)・2体の不動明王立像(いずれも平安時代)・千手観音立像(鎌倉時代)・毘沙門天立像(平安時代)などを安置しています。
【當麻寺 備考】
*参考・・・當麻寺(見所・アクセス・・・)ホームページ