郡山城跡梅見ごろ2025(時期:2月上旬~3月中旬頃)
郡山城跡梅見ごろ(見頃)
郡山城跡梅見ごろ(時期・イベント等)を紹介しています。梅見ごろは例年2月上旬頃から3月中旬頃です。郡山城跡には跡内にしだれ梅・白梅・紅梅・清明梅などの梅の木が植えられています。清明梅は2014年に大和郡山市の市政60周年の記念樹として植えられました。郡山城跡では梅が見ごろを迎える時期に大和郡山盆梅展が行われています。(要確認)(詳細下記参照)
【郡山城跡梅見ごろ(例年時期)】
郡山城跡の梅見ごろは例年2月上旬頃から3月中旬頃です。なお梅の開花状況や見ごろ(満開)はその年の気候などによって多少前後することがあります。
奈良梅名所・梅見ごろ
【郡山城跡梅 アクセス・マップ】
場所・・・奈良県大和郡山市城内町
最寄り駅・バス停・・・近鉄郡山駅(徒歩約5分)
アクセス路線は次の通りです。
*近鉄橿原線
【郡山城跡梅見ごろ(例年時期)・見どころ 概要】
郡山城跡は奈良の梅の名所です。郡山城跡の梅見ごろは例年2月上旬頃から3月中旬頃です。なお郡山城跡では江戸時代に既に梅の木が植えられ、江戸時代中期頃から追手門は梅林門とも言われていました。
郡山城跡にはしだれ梅・白梅・紅梅・清明梅(せいめいばい)などの梅の木が植えられています。清明梅は2014年(平成26年)に大和郡山市の市政60周年の記念樹として植えられました。城址会館前には多くの梅の木が植えられ、梅と城址会館の光景が美しいとも言われています。なお郡山城跡では梅が見ごろを迎える時期に大和郡山盆梅展が行われています。(要確認)
花見と言うと現在は桜を連想するが、奈良時代には中国から伝わった梅だったそうです。しかし平安時代になると梅から桜に変わり、奈良時代末期頃成立の「万葉集」では梅を読んが和歌が桜よりも多かったが、平安時代前期成立の「古今和歌集」では桜を詠んだ和歌の方が梅よりも多くなります。なお梅は中国原産のバラ科サクラ属の落葉高木で、野梅系(やばいけい)・紅梅系(緋梅系)・豊後系(ぶんごけい)に大きく分類されるそうです。
追手門は1983年(昭和58年)に大和郡山市市民によって復元されました。翌1984年(昭和59年)に追手東隅櫓、1987年(昭和62年)に追手向櫓が市民の寄付などによって復元されました。
城址会館は1908年(明治41年)に奈良県立図書館として興福寺境内に建設され、1968年(昭和43年)に奈良県立図書館が奈良県文化会館内に移ると郡山城跡法印郭に移されました。なお城址会館は外観が和風、内部が洋風の和洋折衷様式です。
大和郡山盆梅展
【郡山城跡 歴史・簡単概要】
郡山城跡(こおりやまじょうあと)は奈良時代に薬園があった場所と言われています。郡山城は平安時代後期の1162年(応保2年)に郡山衆が雁陣の城(がんじんのしろ)を築いたのが起源とも言われています。その後安土桃山時代の1580年(天正8年)に筒井順慶(つついじゅんけい)が織田信長(おだのぶなが)の援助によって大和国守護になり、1581年(天正9年)に明智光秀(あけちみつひで)が普請目付になって改修したと言われています。1584年(天正12年)に筒井順慶が亡くなると関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命により、養子・筒井定次(つついさだつぐ)が伊賀上野城に転封になり、1585年(天正13年)に秀吉の異父弟・豊臣秀長(とよとみひでなが)が入城し、大規模に改修したと言われています。しかし1591年(天正19年)に秀長、1595年(文禄4年)に養子・豊臣秀保(とよとみひでやす)が亡くなり、その後五奉行・増田長盛(ますだながもり)が入城し、惣構えに改修したと言われています。関ヶ原の戦い後、増田長盛が高野山に追放されると建物は伏見城に移されたと言われています。江戸時代に水野勝成(みずのかつなり)が入城する際、徳川幕府によって改修されました。その後江戸時代中期の1724年(享保9年)に柳沢吉里(やなぎさわよしさと)が入城すると明治維新まで柳沢氏の居城になりました。なお郡山城は1873年(明治6年)に建物が破却され、一部は売却されたそうです。
郡山城跡(本丸・毘沙門曲輪)は奈良県の指定史跡です。
*参考・・・郡山城跡(アクセス・見どころ・・・)wikipedia
【郡山城跡梅 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
郡山城跡(アクセス・見どころ・・・)情報