源義経(みなもとのよしつね)・静御前(しずかごぜん)と吉野山
源義経・静御前と吉野山
源義経は1185年(文治元年)3月の壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼしたが、兄・源頼朝と対立します。その後天王寺から吉野山に愛妾の静御前や武蔵房弁慶らとともに逃れ、金峯山寺の僧坊・吉水院(吉水神社)で5日間かくまわれていたと言われています。
【吉野山の桜見ごろ(例年時期)・2025年開花満開予測】
吉野山の桜見ごろは例年4月上旬頃から4月中旬頃です。ただ桜の開花状況や見ごろ(満開)はその年の気候などによって多少前後することがあります。なお2025年1月下旬頃から奈良の桜開花・満開・見ごろ情報を発信します。
吉野山桜見ごろ
【吉野山 歴史・簡単概要】
吉野山は奈良県中央部を流れる吉野川(紀の川)南岸から大峰山脈に続く約8キロメートルの山稜です。吉野山では修験道の祖である役行者・役小角が修行中に感得した蔵王権現を桜の木に自ら刻み、桜が蔵王権現の神木とされ、蔵王権現に祈願する際に桜の苗木を寄進することが風習になりました。現在、吉野山には白山桜(シロヤマザクラ)など約200種・約3万本の桜の木が植えられています。
【源義経(みなもとのよしつね)・静御前(しずかごぜん)】
源義経は平安時代(794年~1185年)末期の1185年(文治元年)3月の壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)で平氏を滅ぼしたが、その後異母兄で、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)と対立します。1185年(文治元年)4月に京都に凱旋し、5月に平宗盛(たいらのむねもり)親子を鎌倉に護送したが、源頼朝から鎌倉入りを拒否され、6月に京都に戻りました。10月に後白河法皇(第77代・後白河天皇(ごしらかわてんのう))から源頼朝追討宣旨を得たが、11月に京都を追われ、大物浦(兵庫県尼崎市)から西国に逃れようとしました。しかし暴風雨で吹き戻され、大阪・天王寺(てんのうじ)から奈良・吉野山に愛妾の白拍子・静御前(しずかごぜん)や武蔵房弁慶(むさしぼうべんけい)・源有綱(みなもとのありつな)・堀弥太郎景光(ほりやたろうかげみつ)とともに逃れました。「義経記(ぎけいき)」によると12月14日に源義経一行が吉野山に逃げ込んだとされています。源義経一行は金峯山寺(きんぷせんじ)の僧坊・吉水院(きっすいいん・吉水神社(よしみずじんじゃ))で5日間かくまわれていたと言われています。ただ吉野山では衆徒(僧兵)が源義経一行の捜索に乗り出し、身の危険を感じた源義経一行は吉野山からの脱出を図ります。ただ大峰山(大峯山)は女人禁制(にょにんきんせい)だったことから静御前に金銀財宝を渡して京都に逃す段取りをし、武蔵房弁慶らとともに大峰山に入りました。源義経は山伏の姿に変装したと言われています。ちなみに吉野には青根ヶ峰近くに源義経が弁慶らとともに隠れたと伝えられている義経隠れ塔(よしつねかくれとう・蹴抜の塔(けのけのとう))が残されています。源義経は1187年(文治3年)2月に奥州平泉に落ち延び、1189年(文治5年)6月に奥州藤原氏3代当主・藤原秀衡(ふじわらのひでひら)に襲撃されて自刃しました。なお静御前は金銀財宝を従者に奪われて吉野山に置き去りにされ、尋問後に鎌倉に送られ、源頼朝・政子(まさこ)らが臨席した鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で白拍子の舞を命じられました。その時に静御前は源義経の子を身籠っており、源頼朝は「女子なら生かすが、男子なら殺す」ことにし、生まれた子供が男子だったことからは由比ガ浜(ゆいがはま)で海に沈められて殺されたと言われています。
●源義経(牛若丸)は1159年(平治元年)に父・源義朝と母・常盤御前の間に生まれ、源義朝の九男でした。幼名を牛若丸と言い、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の異母弟になります。1160年(平治2年)の平治の乱で父・源義朝が敗死すると母・常盤御前と同母兄2人ととにも大和(奈良)に逃れ、1162年(応保2年)に母・常盤御前が一条長成と再婚し、1169年(嘉応元年)に鞍馬寺に預けられました。その後1174年(承安4年)頃に奥州平泉に下り、奥州藤原氏3代当主・藤原秀衡の庇護を受けました。1180年(治承4年)に異母兄で、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝が平家打倒の為に挙兵するとそれに呼応し、奥州平泉から鎌倉に駆け付け、1183年(寿永2年)に代官として畿内に派遣されました。1184年(元暦元年)に源義仲(木曽義仲)を討って入京し、その後一ノ谷の戦い・屋島の戦いなど経て、1185年(文治元年)の壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼしました。その後独断専行による平氏との戦いや許可を得ることなく朝廷から官位を受けたことなどで異母兄・源頼朝と対立して朝敵になり、後白河法皇(第77代・後白河天皇)による源頼朝追討宣旨を得て挙兵したが、失敗しました。その後全国に捕縛の命が伝わると愛妾の白拍子・静御前らとともに吉野、更に奥州平泉の藤原秀衡を頼って逃れたが、1189年(文治5年)6月15日に藤原泰衡によって衣川館で討たれ、享年31歳で自刃しました。なお源義経の首は酒に浸され、43日間掛けて鎌倉に送られ、1189年(文治5年)6月13日に首実検が行われました。源頼朝は源義経や奥州藤原氏の怨念を鎮める為に鎌倉に永福寺を創建しました。
●静御前は生没年不詳です。静御前は母が白拍子・磯禅師で、源義経の愛妾です。鎌倉幕府初代将軍・源頼朝と対立した源義経とともに吉野に逃れたが、吉野で源義経と別れ、1186年(文治2年)3月に母・磯禅師とともに鎌倉に送られました。同年7月に源義経の子供を産んだが、子供が男の子だったことから由比ガ浜で海に沈められて殺されたと言われています。同年9月16日に母とともに京都に返され、その後の消息は不明です。
【源義経・静御前と吉野山】
*奈良には多くの桜名所があり、その桜見ごろを下記リンクから確認できます。
奈良桜見ごろ2025