歌人・西行法師(さいぎょうほうし)と吉野山

西行法師

歌人・西行法師と吉野山

西行法師は「願はくは 花のしたにて 春死なむ そのきさらぎの 望月の頃(どうか、桜の花の咲くもとで死にたいものだ。お釈迦が入滅した2月15日頃に)」と詠んで、桜をこよなく愛し、1140年(保延6年)頃に吉野に訪れ、奥千本辺りに庵を結んで約2年余り住みました。

【吉野山の桜見ごろ(例年時期)・2025年開花満開予測】
吉野山の桜見ごろは例年4月上旬頃から4月中旬頃です。ただ桜の開花状況や見ごろ(満開)はその年の気候などによって多少前後することがあります。なお2025年1月下旬頃から奈良の桜開花・満開・見ごろ情報を発信します。
吉野山桜見ごろ

【吉野山 歴史・簡単概要】
吉野山は奈良県中央部を流れる吉野川(紀の川)南岸から大峰山脈に続く約8キロメートルの山稜です。吉野山では修験道の祖である役行者・役小角が修行中に感得した蔵王権現を桜の木に自ら刻み、桜が蔵王権現の神木とされ、蔵王権現に祈願する際に桜の苗木を寄進することが風習になりました。現在、吉野山には白山桜(シロヤマザクラ)など約200種・約3万本の桜の木が植えられています。

【歌人・西行法師(さいぎょうほうし)】
吉野山には西行法師像が安置されている西行庵や西行法師が「とくとくと 落つる岩間の 苔清水 汲みほすまでも なき住居かな」と詠んだ苔清水(こけしみず)などがあります。吉野では飛鳥時代(592年~710年)に修験道(しゅげんどう)の祖である役行者(えんのぎょうじゃ)・役小角(えんのおづの)が山上ヶ岳(さんじょうがたけ)で一千日間の参籠修行を行っていると蔵王権現(ざおうごんげん)を感得し、その姿を桜の木に刻み、山上ヶ岳(大峰山寺(おおみねさんじ))と吉野山(金峯山寺(きんぷせんじ))に祀りました。その後役行者・役小角の神秘的な伝承や修験道が盛んになると蔵王権現のご神木が桜とされ、金峯山寺に参詣した際に桜の苗木を献木することが風習になり、平安時代(794年~1185年)頃から桜の木がたくさん植えられるようになり、文人墨客などが吉野を訪れるようになりました。西行法師は「願はくは 花のしたにて 春死なむ そのきさらぎの 望月の頃(どうか、桜の花の咲くもとで死にたいものだ。お釈迦が入滅した2月15日頃に)」と詠んで、桜をこよなく愛し、平安時代後期の1140年(保延6年)頃に吉野に訪れ、奥千本辺りに庵を結んで約2年余り住みました。「西行物語絵巻」には西行法師が黒染めの衣に笈(おい)を背負い、人跡まれな残雪の吉野山を行く姿が描かれています。西行法師は奥駈修行を志して吉野に来て、2度満行したと伝えられます。西行法師は生涯に約2,090首の和歌を詠み、その内の約230首が桜を詠んだもので、約60首が吉野の桜を詠んだものです。和歌には「吉野山 こずゑの花を 見し日より 心は身にも そはずなりにき」・「花を見し 昔の心 あらためて 吉野の里に 住まんとぞ思ふ」・「今よりは 花見ん人に 伝へおかん 世を遁れつつ 山へ住まへと」・「よし野山 さくらが枝に 雲散りて 花おそげなる 年にもあるかな」・「吉野山 こぞのしをりの 道かへて まだ見ぬかたの 花を尋ねむ」・「ながむとて 花にもいたく 馴れぬれば 散る別れこそ 悲しかりけれ」・「吉野山 桜が枝に 雪散りて 花遅げなる 年にもあるかな」などがあります。

●西行法師は1118年(元永元年)に父の左衛門尉・佐藤康清と母の監物・源清経女の間に佐藤藤兵衛義清として生れました。父は衛府に仕え、紀伊国田仲荘(和歌山県紀の川市(那賀郡打田町竹房))を知行地としていました。佐藤氏は祖先に俵藤太秀郷がおり、奥州藤原氏と縁続きでした。「古今著聞集」によると10代の頃に徳大寺実能の家人になり、「長秋記」によると1135年(保延元年)に左兵衛尉に任ぜられ、鳥羽院(第74代・鳥羽天皇)に下北面武士として仕えていました。徳大寺公重の菊の会に招かれ、歌人としての評価も得ていたと言われています。1140年(保延6年)の23歳の時に官位も妻子も捨てて、京都・勝持寺で出家して西行法師と号しました。出家には近親者の死や悲恋などが関係しているとも言われています。出家後に東山・嵯峨・鞍馬などに草庵を結び、和歌山の高野山や奈良吉野の大峰山などで修行したとも言われています。30歳頃に陸奥を行脚しました。1149年(久安4年)頃に高野山に入り、1168年(仁安3年)に保元の乱(1156年(保元元年))に敗れて讃岐(香川)に配流された崇徳院(第75代・崇徳天皇(すとくてんのう)の白峯陵参拝や真言宗の宗祖である弘法大師・空海の遺跡巡礼の為に四国・中国を行脚し、高野山に戻りました。1180年(治承4年)頃に伊勢(三重)に移りました。1186年(文治2年)に南都焼き討ち(1180年(治承4年))で焼失した東大寺再建の勧進の為に再び陸奥を行脚しました。鎌倉で鎌倉幕府初代将軍・源頼朝に面会し、奥州平泉で奥州藤原氏第3代当主・藤原秀衡と面会し、伊勢に戻りました。その後河内国石川郡弘川(大阪府南河内郡河南町弘川)の弘川寺に庵居し、かつて和歌に「願はくは 花のしたにて 春死なむ そのきさらぎの 望月の頃」と詠んだ通り、1190年(建久元年)3月31日(旧暦2月16日)に亡くなりました。

【歌人・西行法師と吉野山】
*奈良には多くの桜名所があり、その桜見ごろを下記リンクから確認できます。
奈良桜見ごろ2025

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