俳諧師・松尾芭蕉(まつおばしょう)と東大寺お水取り

俳諧師・松尾芭蕉と東大寺お水取り

俳諧師・松尾芭蕉は1685年(貞享2年)2月に東大寺二月堂に籠って、お水取り(修二会)を間近で見たと言われています。紀行文「野ざらし紀行」に「水とりや 氷の僧の 沓のおと」と詠まれています。ちなみに二月堂前の龍王之瀧にある句碑には「水取や 籠りの僧の 沓乃音」と刻まれています。(詳細下記参照)

【東大寺お水取り2025 日程時間(要確認)】
東大寺お水取り2025は2025年(令和7年)3月1日(土曜日)~14日(金曜日)に行われます。なおお松明は19:00から行われます。ただ12日(水曜日)は19:30、14日は18:30から行われます。
東大寺お水取り2025日程

【東大寺お水取り 基礎知識】
東大寺お水取り(おみずとり)・修二会(しゅにえ)・お松明(おたいまつ)は正式には十一面悔過(じゅういちめんけか)と言います。十一面悔過では二月堂(国宝)の本尊・大観音(おおかんのん)と小観音(こがんのん)に罪を懺悔し、鎮護国家・天下泰安・万民豊楽・五穀豊穣などを祈願しました。お水取りは752年(天平勝宝4年)に東大寺の開山・良弁僧正の高弟・実忠(じっちゅう)が始め、以来一度も途切れることなく続けられています。ちなみにお水取りの名称は二月堂の本尊に井戸・若狭井(わかさい)から汲み上げたお香水(おこうずい)を供えたことに由来し、修二会の名称は旧暦の2月に修する法会に由来し、お松明の名称は夜毎松明(たいまつ)に火を灯したことに由来します。
東大寺お水取り2025

【俳諧師・松尾芭蕉(まつおばしょう)】
俳諧師・松尾芭蕉は江戸時代(1603年~1868年)前期の1685年(貞享2年)2月に東大寺二月堂に籠って、お水取り(修二会(しゅにえ))を間近で見たと言われています。紀行文「野ざらし紀行」に「水とりや 氷の僧の 沓のおと(みずとりや こおりのそうの くつのおと)」と詠まれ、後年の松尾芭蕉自筆の「甲子吟行画巻」には「水とりや 氷の僧の 沓の音」と記され、「おと」 が 「音」 と漢字表記になっています。ちなみに二月堂前の龍王之瀧にある句碑には「水取や 籠りの僧の 沓乃音」と刻まれています。なお松尾芭蕉が見た1685年(貞享2年)のお水取りでは大仏(盧舎那仏坐像)の修理や大仏殿を再建した東大寺第二の中興開山で、大勧進・龍松院公慶上人(りゅうしょういんこうけいしょうにん)が密教・神道的なものを含めた修法を司る咒師(しゅし)を勤めました。

●松尾芭蕉は江戸時代(1603年~1868年)前期の1644年(寛永21年)に松尾与左衛門の二男・金作として、伊賀国阿拝郡(三重県伊賀市)に生まれました。上柘植村、または転居後の赤坂町で生まれたと言われています。6人兄弟で兄1人・姉1人・妹3人です。松尾家は平氏の末流で、柘植郷の土豪だったと言われています。苗字・帯刀が許されていたが、武士ではなく、農民だったと言われています。1656年(明暦2年)に父・与左衛門が亡くなると兄・半左衛門(命清)が家督を継ぎ、1662年(寛文2年)に藤堂主計良忠(蝉吟)に料理人として仕え、主人とともに北村季吟から俳諧を学びました。1662年(寛文2年)に詠んだ「春や来し 年や行けん 小晦日」が年代が分る1番古い句と言われています。1664年(寛文4年)に松江重頼撰「佐夜中山集」に「松尾宗房」の名で詠んだ2句が初入集しました。1666年(寛文6年)に貞徳翁13回忌追善百韻俳諧が催され、現存する最古の連句が詠まれました。また同年に藤堂主計良忠(蝉吟)が亡くなると職を辞したと言われています。その後の動向は明確ではないが、1667年(寛文7年)の「続山井(湖春編)」、1669年(寛文9年)の萩野安静撰「如意宝珠」、1670年(寛文10年)の岡村正辰撰「大和巡礼」、1671年(寛文11年)の吉田友次撰「俳諧藪香物」に入集しました。1672年(寛文12年)に処女句集「貝おほひ」を上野天神宮(三重県伊賀市)に奉納しました。1674年(延宝2年)に北村季吟から俳諧作法書「俳諧埋木」が伝授されました。1675年(延宝3年)に江戸に上って、日本橋の小沢卜尺の貸家に移り住んだとも、日本橋小田原町の魚問屋・杉山杉風の宅に入ったとも言われています。江戸の俳人や江戸俳壇の後見と言われた磐城平藩主・内藤義概らと交流し、1675年(延宝3年)5月に西山宗因を迎えて行われた九吟百韻で、初めて号「桃青」を使いました。1678年(延宝6年)頃に俳諧師を生業とし、1680年(延宝8年)に深川に草庵・芭蕉庵を結び、1683年(天和3年)刊の「むさしぶり」に「侘びてすめ 月侘斎が 奈良茶哥」と詠み、「むさしぶり」で新たな号「芭蕉」が初めて使われました。1682年(天和2年)に八百屋お七の火事(天和の大火)で草庵が焼失し、甲斐谷村藩の国家老・高山繁文に招かれ流寓し、翌1683年(天和3年)に江戸に戻って芭蕉庵を再建しました。1684年(貞享元年)8月に「野ざらし紀行」の旅に出て、伊賀・大和・吉野・山城・美濃・尾張・甲斐を回り、1685年(貞享2年)4月に江戸に戻りました。その後1687年(貞享4年)に「鹿島詣」・「笈の小文」、1688年(貞享5年)に「更科紀行」の旅にも出ました。西行法師の500回忌に当たる1689年(元禄2年)3月27日に「おくのほそ道」の旅に出て、下野・陸奥・出羽・越後・加賀・越前などを回りました。同年秋に伊賀上野に帰り、年末に近江(滋賀)の義仲寺の無名庵で過ごしました。1690年(元禄3年)1月に伊賀上野に帰り、その後京都・滋賀を訪れ、1691年(元禄4年)に江戸に戻り、1692年(元禄5年)5月に再建された芭蕉庵に移り住みました。1694年(元禄7年)5月に江戸を発って上方旅行に向かい、同年10月12日に大阪で亡くなりました。遺骸は蕉門十哲に数えられた向井去来・宝井其角らの門人が舟に乗せて淀川を上り、13日に近江(滋賀)の義仲寺に運ばれ、14日に葬儀が行われ、遺言によって木曽義仲(源義仲)の墓の隣に葬られました。

【俳諧師・松尾芭蕉と東大寺お水取り 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
東大寺見どころ

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