奈良奉行(ならぶぎょう)と若草山焼き
奈良奉行と若草山焼き
奈良奉行と若草山焼きを紹介しています。奈良奉行は江戸時代から若草山焼きに関りがあり、現在も御神火を運ぶ聖火行列で奈良奉行所役人が雅楽道楽・僧兵・金峯山寺法螺衆などとともに飛火野・水谷神社・野上神社・若草山の順に練り歩きます。奈良奉行所は江戸時代中期に若草山に放火禁止の立て札を立てたりしました。
【若草山焼き2025 日程時間(要確認)】
若草山焼き2025は2025年(令和7年)1月25日(土曜日)18:30から行われます。18:15から大花火が打ち上げられます。(荒天の場合、中止)(現在確認中・要注意)
若草山焼き2025
【若草山焼き 基礎知識】
若草山焼きは起源が明確ではなく、江戸時代(1603年~1868年)以前から行われていると言われています。若草山焼きは東大寺と興福寺・春日大社の領地争いを焼き払って解決したのが起源とも、鶯塚古墳の霊魂を鎮める為とも、山を焼かなければ翌年に不祥事が起こる為とも言われています。ちなみに東大寺・興福寺・春日大社によると若草山焼きは鶯塚古墳の霊魂を鎮めるきこりである杣人の祭礼が起源とされています。江戸時代末期には放火を防止する為、奈良奉行所と東大寺・興福寺が立ち会って山を焼くようになったそうです。なお現在、若草山焼きは先人の鎮魂と慰霊、防災と世界の平安を祈願する為に行われています。
【奈良奉行(ならぶぎょう・南都奉行(なんとぶぎょう))】
奈良奉行(南都奉行)は江戸時代(1603年~1868年)から若草山焼きに関りがあり、現在も春日の大とんどから採火された御神火を若草山に運ぶ聖火行列で奈良奉行所役人が雅楽道楽(ががくみちがく)・僧兵(そうへい)・金峯山寺法螺衆(きんぷせんじほらがいしゅう)などとともに飛火野(とびひの)・水谷神社(みずたにじんじゃ)・野上神社(のがみじんじゃ)・若草山の順に練り歩きます。若草山焼きは起源が明確ではありません。若草山頂上に築かれている鶯塚古墳(うぐいすづかこふん)から出た幽霊(ゆうれい)が住民を怖がらせ、また若草山を翌年1月頃までに焼いて慰霊しないと不吉なことが起こるという迷信もあり、住民らが勝手に若草山に火を点けることが慣習化し、度々東大寺(とうだいじ)境内に火の手が迫る事件が起こりました。そこで江戸時代中期の1738年(元文3年)12月に奈良奉行所は若草山に放火禁止の立て札を立てました。しかしその後も放火が続き、近隣の寺社(東大寺・春日大社(かすがたいしゃ)・興福寺(こうふくじ))に火の手が広がると類焼・延焼の危険性がある為、江戸時代末期頃に奈良奉行所が若草山に隣接する東大寺・興福寺とともに若草山を焼くようになりました。なお若草山焼きは江戸時代に東大寺・興福寺・春日大社の領地争いを仲裁する為、奈良奉行が寺社の境界をあいまいにする為に火を点けたのが起源という説もあります。
●奈良奉行は南都奉行と言われる江戸幕府の職名で、遠国奉行のひとつに数えられました。奈良奉行は老中の支配だったが、京都所司代の指揮下にありました。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後に大久保長安配下の奉行衆が奈良を支配していたが、大久保長安が失脚すると1613年(慶長18年)に興福寺の衆徒だった中坊氏が起用されました。中坊氏の時代には興福寺・春日大社の対策が主要任務で、民政上の権限は確立されておらず、大和国内の代官も兼任していました。1664年(寛文4年)に土屋利次が奈良奉行に就任すると奈良奉行と代官の職掌は分離され、奈良奉行は民政、奈良代官は天領を管掌するようになりました。1680年(延宝8年)頃から地論・水論などの裁判権の一部が京都町奉行に移管され、京都町奉行と分担して裁判を行いました。奈良奉行所は現在の奈良女子大学が立地する場所にあり、奉行所の屋敷は面積8,695.5坪でした。奈良奉行所は四方を堀や佐保川で囲まれ、北側に赤門、南側に黒門があり、北魚屋西町に牢屋がありました。奈良奉行所は大坂町奉行所の2,960坪・京都町奉行所の5,327坪などと比べると大きな奉行所でした。
●鶯塚古墳は古墳時代中期(5世紀初頭頃)に造られたと言われています。鶯塚古墳は被葬者が明確ではなく、第16代・仁徳天皇(にんとくてんのう)の皇后・磐之姫命が被葬者とも言われているそうです。鶯塚古墳は二段築成の前方後円墳で、全長約103メートル・前方部幅約50メートル・後円部径61メートルです。
【奈良奉行と若草山焼き 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。