飛鳥寺歴史-修学旅行・観光ポイント
飛鳥寺の時代別年表と重要人物
飛鳥寺歴史を簡単にマトメてポイント解説します。飛鳥寺は6世紀末から7世紀初頭に蘇我馬子が蘇我氏の氏寺として創建し、日本最古の本格的仏教寺院とも言われています。飛鳥寺は当初、法興寺と言われたそうです。なお飛鳥寺歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。
【前史(蘇我馬子)】
★蘇我馬子(そがのうまこ)は仏教を信仰し、584年(敏達天皇13年)に百済(くだら)から渡来した鹿深臣(かふかのおみ)の石像一体、佐伯連(さえきのむらじ)の仏像一体をもらい受けたと言われています。また蘇我馬子は「宅の東の仏殿」・「石川の宅の仏殿」・「大野丘の北の塔」などの堂塔も建立したと言われています。ちなみに「宅の東の仏殿」・「石川の宅の仏殿」は石川精舎(いしかわのしょうじゃ)で、三尼(善信尼・禅蔵尼・恵善尼)に供養(くよう)させたと言われています。なお蘇我馬子は587年(用明天皇2年)に排仏派の物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼしました。
【飛鳥寺創建(起源・由来)】
★飛鳥寺は起源が明確ではなく、飛鳥時代(6世紀末から7世紀初頭)に蘇我馬子(そがのうまこ)が蘇我氏の氏寺として創建し、日本最古の本格的仏教寺院と言われています。飛鳥寺は当初、法興寺(ほうこうじ)と言われていました。法興寺には仏法が興隆する寺の意味があります。日本最古の正史「日本書紀(にほんしょき)・720年(養老4年)完成」によると飛鳥寺は587年(用明天皇2年)に蘇我馬子が建立を発願し、593年(推古天皇元年)に塔の心柱の基礎の中に仏舎利(ぶっしゃり)が置かれ、596年(推古天皇4年)に飛鳥寺が完成したと言われています。「日本書紀」には587年(用明天皇2年)に「諸天と大神王の奉為(おほみため)に寺塔(てら)を起立(た)てて、三宝を流通(つた)へむ」、593年(推古天皇元年)に「法興寺の刹柱の礎の中に仏舎利を置く」、596年(推古天皇4年)に「法興寺を造り竟(おわ)りぬ」と記されています。ちなみに「元興寺縁起(がんごうじえんぎ)・747年(天平19年)成立」にも発願が「日本書紀」と同じ、「丁未年(587年)」と記されています。ただ飛鳥寺は588年(崇峻天皇元年)に蘇我馬子が甥で、第32代・崇峻天皇(すしゅんてんのう)が即位した際に創建されたとも言われています。飛鳥寺は「法興寺」・「元興寺(がんごうじ)」・「安居院(あんごいん)」・「建通寺」などとも言われています。なお1956年(昭和31年)から1957年(昭和32年)に行われた発掘調査では飛鳥寺の寺域は南北約300メートル・東西約200メートルで、境内の西南に塔(五重塔)が建立され、その塔の北・東・西側の三方に金堂(中金堂・東金堂・西金堂)が建立され、塔と三つの金堂を囲む回廊の北側に講堂が建立された独特の伽藍でした。飛鳥寺の建立には百済の工人が当り、伽藍配置や瓦の文様などに朝鮮の仏教文化の影響が現れた大寺院でした。「日本書紀」には588年(崇峻天皇元年)に百済から日本に僧と技術者(寺工2名・鑢盤博士1名・瓦博士4名・画工1名)が派遣されたことが記されています。
【飛鳥時代(592年~710年)の歴史・出来事】
★605年(推古天皇13年)に史上初の女帝である第33代・推古天皇(すいこてんのう)が詔を発し、609年(推古天皇17年)に仏師・鞍作止利(くらつくりのとり・鞍作鳥)が「飛鳥大仏」とも言われる本尊・銅造釈迦如来(しゃかにょらい)坐像(重要文化財)を造仏しました。像高約275.2センチの銅造釈迦如来坐像は現存する最古の金銅仏とされています。なお銅造釈迦如来坐像は鎌倉時代に火災によって顔と手以外が失われ、補修されたという文献があり、2016年(平成28年)に大阪大学が行った蛍光X線分析による科学的な調査により、右手と顔が造仏当初のものと考えられることが分かりました。
★645年(大化元年)の乙巳の変(いっしのへん)により、藤原氏の祖・藤原鎌足(ふじわらのかまたり・中臣鎌足(なかとみのかまたり))、第38代・天智天皇(てんぢてんのう)となる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)らが蘇我入鹿(そがのいるか)を板蓋宮(いたぶきのみや)で暗殺し、蘇我蝦夷(そがのえみし)を自殺に追いやって、蘇我本宗家が滅亡したが、飛鳥寺は大官大寺(だいかんだいじ・大安寺(だいあんじ))・川原寺(かわらでら)・薬師寺(やくしじ)とともに四大寺に数えられ、朝廷の庇護を受けました。なお飛鳥寺の西側には蘇我入鹿の首塚があります。
【奈良時代(710年頃~794年頃)の歴史・出来事】
★710年(和銅3年)に藤原京から平城京に都が遷都され、718年(養老2年)に飛鳥寺も平城京に移され、寺号が元興寺(がんごうじ)に改められました。飛鳥に残された飛鳥寺は本元興寺と称しました。なお平城京に移った元興寺は三論宗(さんろんしゅう)と法相宗(ほっそしゅう)の道場として栄え、東大寺(とうだいじ)・興福寺(こうふくじ)と並ぶ大寺院になりました。元興寺の寺域は南北4町(約440メートル)・東西2町(約220メートル)で、現在の奈良町(ならまち)の大部分が境内でした。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】
★887年(仁和3年)に「本元興寺縁起・江戸時代成立」によると雷火によって伽藍が焼失したと言われています。
★1158年(保元3年)に「上宮太子拾遺記」によると飢饉に窮し、飛鳥寺は百済から伝来した弥勒菩薩(みろくぼさつ)石像を多武峰妙楽寺(とうのみねみょうらくじ・談山神社(たんざんじんじゃ))に売り払ったと言われています。
★平安時代に飛鳥寺は朝廷から南都七大寺(東大寺(とうだいじ)・興福寺(こうふくじ)・元興寺・大安寺(だいあんじ)・西大寺(さいだいじ)・薬師寺・法隆寺(ほうりゅうじ))に次ぐ扱いを受けました。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】
★1196年(建久7年)に雷火によって金堂・塔が焼失しました。飛鳥寺は鎌倉時代以降に寺勢が衰え、室町時代には廃寺同然になったとも言われています。
★1197年(建久8年)に東大寺の僧・弁暁が記した「本元興寺塔下堀出御舎利縁起」に弁暁が焼失した塔の心礎から仏舎利と荘厳具を取り出し、再び埋納したことが記されています。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】
★1447年(文安4年)に法隆寺の僧・訓海が記した「太子伝玉林抄」によると飛鳥寺の本尊・釈迦如来坐像(飛鳥大仏)が雨露に曝される露坐だったと言われています。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
★1632年(寛永9年)に「元興寺安居院縁起・1699年(元禄12年)」によると今井の篤志家が仮堂を建立したと言われています。
★1681年(天和元年)に僧・秀意が草庵を結んで安居院と号し、傷んでいた本尊・釈迦如来坐像(飛鳥大仏)を補修したと言われています。
★1745年(延享2年)に梵鐘が鋳造されました。ただ梵鐘は太平洋戦争中に供出されました。
★1772年(明和9年)に国学者・文献学者である本居宣長(もとおりのりなが)が「菅笠日記(すげがさにっき)」に飛鳥寺に門などがなく、かりそめなる堂に本尊・釈迦如来坐像(飛鳥大仏)が安置されていたことを記しています。
★1792年(寛政4年)に「飛鳥大仏」の石碑が参道入口に建立されました。飛鳥寺が創建された際の礎石が台石として使用されています。
★1826年(文政9年)に大坂の篤志家の援助により、現在の本堂が再建されました。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
★1956年(昭和31年)からの発掘調査により、現在の本堂が中金堂の跡地に建立されていることが分かりました。本堂の前には金堂の礎石が残されています。
★1966年(昭和41年)に飛鳥寺跡が国の史跡に指定されました。
【蘇我馬子:飛鳥寺開基】
蘇我馬子は551年(欽明天皇13年)頃に蘇我稲目の子として生まれました。第30代・敏達天皇が即位すると大臣に任命され、その後第31代・用明天皇、第32代・崇峻天皇、第33代・推古天皇の4代に仕え、54年にわたって権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築きました。蘇我馬子は排仏派の大連・物部守屋を滅ぼし、東漢直駒に命じて崇峻天皇を暗殺させ、妹・堅塩媛が生んだ推古天皇を即位され、摂政・聖徳太子とともに政治を指導し、その後聖徳太子が亡くなると実権を握って専横を極めました。蘇我馬子は元興寺の前身である法興寺も創建しました。ちなみに蘇我馬子は家が飛鳥川の畔にあり、庭中の小池に小島があったことから島大臣とも言われました。蘇我馬子には蝦夷・善徳・河上娘・刀自古郎女・法提郎女などの子供がおり、刀自古郎女は聖徳太子、法提郎女を田村皇子(第34代・舒明天皇)の妃になりました。なお蘇我馬子は626年(推古天皇34年)5月20日に亡くなりました。
【飛鳥寺 備考】
*参考・・・飛鳥寺(アクセス・見どころ・・・)wikipedia