世尊寺歴史-修学旅行・観光ポイント

世尊寺の時代別年表と重要人物

世尊寺歴史を簡単にマトメてポイント解説します。世尊寺は587年(用明天皇2年)に聖徳太子(厩戸皇子)が父で、第31代・用明天皇の勅願により、創建したと言われています。世尊寺は比蘇寺・吉野寺とも言われました。なお修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。

【前史(阿弥陀如来坐像・十一面観世音菩薩立像)】

★日本最古の正史「日本書紀(にほんしょき)・奈良時代成立」によると553年(欽明天皇14年)に大阪湾の海中で、雷のような音を出し、光輝くものがあるとの報告があり、第29代・欽明天皇(きんめいてんのう)が怪しんで、溝辺直(いけべのあたい)を派遣して探され、クス(樟)の大木が発見されました。欽明天皇は仏師に仏像2体を造仏させ、この1体が世尊寺(吉野寺)の阿弥陀如来坐像と言われています。阿弥陀如来(あみだにょらい)坐像はクスの一木造りで、像高が145センチ、顔の長さが35センチ、面長でさしい表情をしています。
★「日本書紀」・「聖徳太子伝暦」によると595年(推古天皇3年)3月に高知(土佐)の南海で毎夜雷光のような光が発せられ、翌四月に淡路島に長さ8尺もある沈水香(じんすいこう)の大木が漂着し、漁師が薪と一緒に燃やすと良い香りがしたので第33代・推古天皇(すいこてんおう)に献上されました。聖徳太子(しょうとくたいし)は沈水香が南海に自生する栴壇(せんだん)という香木からできていると推古天皇に奏上し、推古天皇は仏師に観音(かんのん・十一面観世音菩薩(じゅういちめんかんぜおんぼさつ))像を造仏させ、世尊寺(比蘇寺)に祀ったと言われています。

【世尊寺創建(起源・由来)】

★世尊寺は飛鳥時代前期の587年(用明天皇2年)に第31代・用明天皇(ようめいてんのう)の皇子・聖徳太子(厩戸皇子(うまやどのおうじ))が用明天皇の勅願により、創建したと言われています。世尊寺は比蘇寺(ひそでら)・吉野寺(よしのでら)とも言われ、法興寺(ほうこうじ・飛鳥寺(あすかでら))・四天王寺(しんてんのうじ)・法隆寺(ほうりゅうじ・斑鳩寺(いかるがでら))とともに聖徳太子建立四大寺院に数えられました。また世尊寺は聖徳太子建立四六寺院にも数えられました。

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【飛鳥時代(592年~710年)の歴史・出来事】

★飛鳥時代に聖徳太子が亡き父・用明天皇の為に東塔を建立しました。また推古天皇が亡き夫で、第30代・敏達天皇(びだつてんのう)の為に西塔を建立しました。なお世尊寺には東塔跡・西塔跡・金堂跡・講堂跡の礎石が現存しています。世尊寺は薬師寺式伽藍配置で、7世紀後半(飛鳥時代)までに伽藍が整備されたと言われています。
★671年(天智天皇10年)に大海人皇子(おおあまのおうじ(第40代・天武天皇(てんむてんのう))が世尊寺に入寺し、本尊前で歴代天皇・近親者の弔い、兄・天智天皇の病気平癒などを祈願したとも言われています。671年(天智天皇10年)10月17日に大海人皇子(天武天皇)は兄で、第38代・天智天皇(てんぢてんのう)の病気が重くなった際、皇位を譲る旨の打診を受けたが、これを辞退して剃髪し、10月19日に近江大津宮を出発し、宇治・明日香・吉野を経て世尊寺に入寺し、その後吉野離宮(宮滝)に移りました。ちなみに大海人皇子(天武天皇)は668年(天智天皇7年)に兄・中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が天智天皇に即位すると皇太弟として政治を助けたが、その後甥で、天智天皇の第1皇子・大友皇子(おおとものおうじ(第39代・弘文天皇(こうぶんてんのう))が成人すると皇嗣問題が起こりました。672年(天武天皇元年)に天智天皇が崩御すると壬申の乱(じんしんのらん)が起こり、大海人皇子(天武天皇)が挙兵し、甥・弘文天皇(大友皇子)が自害しました。
★飛鳥時代に修験道(しゅげんどう)の祖である役行者(えんのぎょうじゃ)・役小角(えんのおづの)が金峯山(きんぷせん・金峰山)入峰の際に世尊寺を参詣したと言われています。

【奈良時代(710年頃~794年頃)の歴史・出来事】

★奈良時代に唐の高僧・道遷(どうせん)が隠遁し、神叡(しんえい)が20年に渡って籠り、世尊寺が密教の根本道場になったと言われています。

【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】

★平安時代に世尊寺は現光寺(げんこうじ)と言われました。
★平安時代に第56代・清和天皇(せいわてんのう)、宇多上皇(第59代・宇多天皇(うだてんのう)が行幸し、真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)、関白・藤原道長(ふじわらのみちなが)が参詣し、世尊寺が栄えていたと言われています。世尊寺は吉野地方で大変栄えた寺院の一つでした。

【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】

★1279年(弘安2年)に春豪聖人が金峯山(金峰山)から世尊寺に入寺して再興し、堂塔を再建しました。その後西大寺(さいだいじ)中興の祖・興正菩薩叡尊上人(こうしょうぼさつえいそんしょうにん)の留錫により、真言律宗(しんごんりっしゅう)の総本山・西大寺の末寺になりました。
★鎌倉時代(平安時代後期)以降に徐々に衰退し、荒廃したと言われています。また度々荒廃と復旧を繰り返したと言われています。

【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】

★1337年(延元2年・建武4年)春に南朝初代で、第96代・後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が小野文観を先達として、世尊寺に行幸し、勅願寺になり、栗天奉寺(りってんほうじ)と命名されました。

【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】

★1594年(文禄3年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が東塔を解体し、伏見城に移築しました。東塔は1601年(慶長6年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とよとみひでよし)が伏見城から近江(滋賀)の園城寺(えんじょうじ・三井寺(みいでら))に移建し、東塔(三重塔)は重要文化財に指定されています。なお西塔は安土桃山時代までに戦乱で焼失したと言われています。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

★江戸時代初期に山門(一の門)が吉野山から移築されました。山門には左甚五郎(ひだりじんごろう)作とされる猿が彫られています。
★江戸時代に朴道秀拙和尚が世尊寺の復興を念じて入寺しました。
★1688年(貞享5年)4月に俳諧師(はいかいし)・松尾芭蕉(まつおばしょう)が弟子・杜国を伴って、世尊寺を参詣しました。松尾芭蕉は咲き匂う聖徳太子お手植えと言われる壇上桜を眺め、「世にさかる 花にも念佛 まうしけり」と詠みました。
★享保年間(1716年~1736年)に中門(二の門)が建立されました。
★1751年(宝暦元年)に雲門即道禅師を大阪・大道寺から迎えられ、伽藍を整備・縮小し、山号・寺号を霊鷲山(りょうじゅさん)世尊寺と改め、宗派も曹洞宗(そうとうしゅう)に改めました。
★江戸時代中期に太子堂(奈良県指定有形文化財)が建立されました。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

★1881年(明治14年)に火災に見舞われました。
★1927年(昭和2年)に「史跡・比曽寺跡」として、国の史跡に指定されました。
★1937年(昭和12年)にも火災に見舞われました。
★1985年(昭和60年)に芭蕉の句碑が復元されました。
★1986年(昭和61年)に新しく鐘楼が立替えられました。

【聖徳太子:世尊寺開基】

聖徳太子は574年(敏達天皇3年)に第31代・用明天皇と第29代・欽明天皇の第3皇女で、皇后・穴穂部間人の第2皇子として生まれました。幼少時から聡明で、仏法を尊んだと言われています。585年(用明天皇元年)に第30代・敏達天皇が崩御すると父・橘豊日皇子(第31代・用明天皇)が即位したが、 587年(用明天皇2年)に崩御しました。593年(崇峻天皇5年)に叔母で、史上初の女帝である第33代・推古天皇が即位すると皇太子・摂政になって補佐しました。聖徳太子は内政・外交などの政治に尽力し、603年(推古天皇11年)に冠位十二階、604年(推古天皇12年)に十七条憲法を制定したり、607年(推古天皇15年)に小野妹子を遣隋使として派遣したりしました。また仏教に深く帰依し、聖徳太子建立七大寺(法隆寺(斑鳩寺)・広隆寺(蜂丘寺)・法起寺(池後寺)・四天王寺・中宮寺・橘寺・葛木寺)を創建したり、「三経義疏」を著したりして仏教の振興に尽くしました。聖徳太子は622年(推古天皇30年)に亡くなりました。

【世尊寺 備考】
*参考・・・千本ゑんま堂(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

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