興福寺の歴史は鏡大王が夫の為に山階寺を創建したのが起源

興福寺(Kofuku-ji Temple)

興福寺の時代別年表と重要人物

興福寺は669年(天智天皇8年)に鏡大王が夫・藤原鎌足の病気平癒の為、釈迦三尊像などを安置する山階寺を山背国山階陶原に創建したのが起源です。平城遷都とともに藤原不比等が現在の場所に移し、興福寺と名付けました。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。

興福寺見どころ

【釈迦三尊像の造仏】

  • 飛鳥時代後期の645年(大化元年)頃に藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が釈迦三尊(しゃかさんぞん)像を造仏したと言われています。

【興福寺の起源・始まり】

  • 興福寺の前身・山階寺(やましなでら)は669年(天智天皇8年)に藤原鎌足の妻・鏡大王(かがみのおおきみ)が夫・藤原鎌足の病気平癒の祈願の為、山背国山階陶原(京都府京都市山科区)に藤原鎌足発願の本尊・釈迦三尊像や四天王(してんのう)像などを安置したのが起源と言われています。

【飛鳥時代(592年~710年)の出来事】

  • 672年(天武天皇元年)に飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)遷都が行われ、この頃に山階寺(興福寺)も大和国高市郡厩坂に移され、地名から厩坂寺(うまやさかでら)と称しました。
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【奈良時代(710年頃~794年頃)の出来事】

  • 710年(和銅3年)に平城京(へいじょうきょう)遷都が行われ、藤原鎌足の子・藤原不比等(うじわらのふひと)が厩坂寺(興福寺)を現在の場所(平城京左京三条七坊)に移し、興福寺と名付けました。
  • 714年(和銅7年)に金堂が建立されました。
  • 720年(養老4年)に藤原不比等が亡くなると造興福寺仏殿司が置かれ、興福寺の伽藍が国家事業として整備されるようになりました。
  • 721年(養老5年)に第43代・元明天皇(げんめいてんのう)と第44代・元正天皇(げんしょうてんのう)が北円堂を建立しました。
  • 726年(神亀3年)に第45代・聖武天皇(しょうむてんのう)が東金堂を建立しました。
  • 730年(天平2年)に光明皇后(こうみょうこうごう)が五重塔を建立しました。
  • 734年(天平6年)に光明皇后が西金堂を建立しました。
  • 奈良時代に興福寺は四大寺に数えられました。

【平安時代(794年頃~1185年頃)の出来事】

  • 813年(弘仁4年)に藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)が南円堂を建立しました。
  • 970年(天禄元年)に興福寺別当・定昭が塔頭(たっちゅう)・一乗院(いちじょういん)を創建しました。
  • 1017年(寛仁元年)に五重塔・東金堂が焼失し、1031年(長元4年)に五重塔・東金堂が再建されました。
  • 1046年(永承元年)に北円堂・倉を除く、金堂など興福寺の多くの伽藍が焼失しました。ちなみに金堂は平安時代中に1048年(永承3年)に再建され、1060年(康平3年)に焼失し、1067年(治暦3年)に再建され、1096年(嘉保3年)に焼失し、1103年(康和5年)に再建されました。興福寺では平安時代中に金堂以外の伽藍でも度々焼失し、その都度再建されたりしています。
  • 1060年(康平3年)に金堂・講堂・中門・南大門・僧房などが焼失しました。
  • 1087年(寛治元年)に隆禅(りゅうぜん)が塔頭・大乗院(だいじょういん)を創建しました。その後興福寺では一乗院と大乗院が交互に興福寺別当を務めるようになりました。
  • 1096年(嘉保3年)に金堂・講堂・三面僧房・南大門などが焼失しました。
  • 1143年(康治2年)に第75代・崇徳天皇(すとくてんのう)の中宮・皇嘉門院(こうかもんいん・藤原聖子(ふじわらのせいし))が三重塔を建立しました。
  • 1180年(治承4年)に平重衡(たいらのしげひら)よる南都焼き討ちにより、興福寺の伽藍が全焼しました。翌1181年(治承5年)から興福寺別当・信円らが再建を開始します。
  • 1182年(養和2年)に東金堂・西金堂が再建されました。
  • 平安時代に興福寺は七大寺に数えられ、春日大社(かすがたいしゃ)の実権を握るだけでなく、大和国も実質的に支配しました。

【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の出来事】

  • 1186年(文治2年)に講堂が再建されました。この頃に食堂も再建されたと言われています。
  • 1189年(文治5年)に南円堂が再建されました。
  • 1194年(建久5年)に金堂・南大門などが再建されました。ちなみに金堂は鎌倉時代中に1277年(建治3年)に焼失し、1300年(正安2年)に再建され、1327年(嘉暦2年)に焼失しました。興福寺では鎌倉時代中に金堂以外の伽藍でも焼失し、その都度再建されたりしています。
  • 1205年(元久2年)に五重塔が再建されました。
  • 1210年(承元4年)に北円堂が再建されました。
  • 1277年(建治3年)に金堂・講堂・三面僧房・中門・南大門などが焼失しました。
  • 1327年(嘉暦2年)に金堂・講堂・西金堂・南円堂・中門・南大門などが焼失しました。

【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の出来事】

  • 1356年(正平11年・文和5年)に五重塔・東金堂が焼失しました。1368年(正平23年・応安元年)に東金堂、1375年(永和元年)に五重塔が再建されました。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の出来事】

  • 1399年(応永6年)に金堂が再建されました。
  • 1411年(応永18)に五重塔・東金堂・大湯屋が焼失しました。
  • 1415年(応永22年)に現在の東金堂が再建されました。
  • 1426年(応永33年)頃に現在の五重塔と現在の大湯屋が再建されました。
  • 1451年(宝徳3年)に徳政一揆(とくせいいっき)により、大乗院などが焼失しました。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事】

  • 1717年(享保2年)に金堂・講堂・僧房・西金堂・南円堂・中門・南大門などが焼失し、その後金堂・講堂・南大門は再建されませんでした。
  • 1741年(寛保元年)に南円堂が立柱され、1789年(寛政元年)に再建されました。
  • 1819年(文政2年)に仮堂(金堂)が建立されました。

【明治時代以降(1868年頃~)の出来事】

  • 1868年(慶応4年)に神仏分離(廃仏毀釈)により、一乗院門跡・大乗院門跡などが廃止になり、門跡は還俗しました。
  • 1871年(明治4年)に上知令によって興福寺の寺領が没収され、僧侶は春日大社の神職になりました。
  • 1881年(明治14年)に興福寺の再興が許可されました。
  • 1974年(昭和49年)に薬師寺の旧金堂が仮金堂として講堂跡に移築されました。
  • 1998年(平成10年)に興福寺はユネスコ世界文化遺産(古都奈良の文化財)に登録されました。
  • 2000年(平成12年)に仮堂(金堂)が解体され、2018年(平成30年)に仮金堂が仮講堂に名称が改められました。
  • 2010年(平成22年)10月に中金堂が立柱され、2018年(平成30年)10月に落慶法要が行われました。

【興福寺の前身・山階寺の開基とされる鏡大王】

鏡大王(鏡女王・鏡姫王)は詳細が明確ではありません。鏡大王は鏡王の娘とも、額田王(ぬかたのおおきみ)の姉とも、第34代・舒明天皇(じょめいてんのう)の皇女とも、舒明天皇の皇孫とも、また藤原不比等の生母とも言われています。鏡大王は第38代・天智天皇(てんぢてんのう)の妃だったが、その後藤原鎌足の正妻となったと言われています。なお鏡大王は万葉集の女流歌人で、万葉集に四首の歌が収録されています。

【興福寺 備考】
*参考・・・興福寺(歴史・見どころ・・・)ホームページ

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