唐招提寺の歴史は鑑真和上が新田部親王の宅跡を下賜されたのが起源
唐招提寺の時代別年表と重要人物
唐招提寺は759年(天平宝字3年)に渡来僧・鑑真和上が第40代・天武天皇の皇子・新田部親王の宅跡を下賜され、戒律を学ぶ修行道場としたのが起源です。唐招提寺は当初、唐律招提と名付けられ、鑑真和上の私寺でした。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。
【天武天皇の皇子・新田部親王の邸宅】
- 唐招提寺が建立されている場所はが第40代・天武天皇(てんむてんのう)の皇子・新田部親王(にいたべしんのう)の邸宅がありました。新田部親王は天武天皇と藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の娘・五百重娘(いおえのいらつめ)の皇子として生まれました。719年(養老3年)に第44代・元正天皇(げんしょうてんのう)から舎人親王(とねりしんのう)とともに皇太子・首親王(第45代・聖武天皇(しょうむてんのう))の補佐を命じられ、その後朝廷直轄の軍事力の統括者になり、721年(養老5年)に右大臣・長屋王(ながやおう)とともに皇親政権を構成しました。新田部親王は735年(天平7年)に亡くなり、邸跡から部分的に金箔や漆で覆われたレリーフ形式の仏像・せん仏の破片が発掘されました。
【唐招提寺の起源・始まり】
- 唐招提寺は奈良時代中期の759年(天平宝字3年)に唐(中国)からの渡来僧・鑑真和上(かんじんわじょう)が新田部親王の邸跡(平城京右京五条二坊)を朝廷から賜り、戒律を学ぶ修行道場として創建されました。新田部親王宅跡は広さ4町で、唐招提寺の境内は東西約255メートル・南北約245メートルだったと言われています。唐招提寺は当初、唐律招提と名付けられた鑑真和上の私寺で、講堂や新田部親王宅跡を改造した経蔵・宝蔵などがあるだけでした。唐律招提には「唐の律を学ぶ道場」という意味があるそうです。なお新田部親王は天武天皇と藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の娘・五百重娘(いおえのいらつめ)の間に生まれました。700年(文武天皇4年)に浄広弐(じょうこうに)に叙され、720年(養老4年)に藤原不比等(ふじわらのふひと)が亡くなると知五衛及授刀舎人事(ちごえいおよびじゅとうとねりじ)に任命され、朝廷直轄の軍事力の統括者になり、721年(養老5年)に長屋王(ながやおう)とともに皇親政権を構成しました。729年(神亀6年)の長屋王の変では長屋王を尋問しました。なお新田部親王は735年(天平7年)に亡くなりました。
【奈良時代(710年頃~794年頃)の出来事】
- 760年(天平宝字4年)頃に行われた平城宮(へいじょうきゅう)改修の際、平城宮の東朝集殿(ひがしちょうしゅうでん)が移されて講堂が建立されました。講堂は平城宮唯一の遺構と言われています。
- 奈良時代後期(8世紀後半)に鑑真和上の弟子・如宝(にょほう)が金堂を建立しました。金堂は年輪年代測定によると781年(天応元年)に伐採されたヒノキが使われていました。
- 奈良時代に唐招提寺には講堂・金堂・食堂(じきどう)・羂索堂(けんさくどう)・八角堂3基・僧房・小子房・温湯室などの伽藍が建立され、食堂は藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)家の寄進、羂索堂は藤原清河家の寄進によって建立されたと言われています。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の出来事】
- 810年(弘仁元年)に「日本紀略」によると東塔が建立されたと言われています。
- 平安時代中期以降に戒律が廃れると唐招提寺も衰微したが、平安時代後期の1140年(保延6年)には金堂・講堂・宝蔵・御影堂・阿弥陀院などの伽藍が建立されていました。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の出来事】
- 1243年(寛元元年)に唐招提寺中興の祖・覚盛(かくじょう)が舎利会(しゃりえ)を創設し、翌1244年(寛元2年)に入寺して唐招提寺の再興を始めます。覚盛の弟子・証玄が唐招提寺の伽藍を修理したり、仏像を造仏したり、戒壇を創設したりしました。なお覚盛は蚊に刺されるのを見ていた弟子が蚊を叩こうとした際、「不殺生を守りなさい 自分の血を与えるのも菩薩行である」と戒め、1249年(建長元年)に亡くなると法華寺(ほっけじ)の尼僧が遺徳を偲んで、「せめて団扇で蚊を払って差し上げよう」とハート型うちわ・宝扇(ほうせん)を供えたことから覚盛の命日にうちわまきが行われるようになりました。
【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の出来事】
- 南北朝時代に兵火に見舞われたり、寺領の多くを失ったりしたことから唐招提寺は衰退します。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事】
- 江戸時代に護持院隆光が江戸幕府5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)とその生母・桂昌院(けいしょういん)の帰依を受け、徳川綱吉と桂昌院が唐招提寺の伽藍を修理しました。
- 1698年(元禄11年)に戒壇院が再興されました。
- 1802年(享和2年)に火災によって東塔・五重塔などの唐招提寺の重要な伽藍が焼失しました。
- 江戸時代に唐招提寺では度々地震や雷火などによって伽藍が被害を受けました。
【明治時代以降(1868年頃~)の出来事】
- 明治維新後に神仏分離令によって鎮守社・水鏡天神社が独立しました。
- 1998年(平成10年)に唐招提寺はユネスコ世界文化遺産(古都奈良の文化財)に登録されました。
【唐招提寺の開山とされる鑑真和上】
鑑真和上は688年に唐(中国)・揚州江陽県に生まれました。14歳で智満の元で出家し、18歳で道岸から菩薩戒を受け、20歳から長安で律宗・天台宗を学んで修行を積み、江南第一の大師と称されました。法蔵部に伝承されてきた四分律に基づく南山律宗の継承者になりました。742年(天宝元年)に遣唐使として唐に渡った栄叡・普照から伝戒の師としての招請を受け、753年(天平勝宝5年)に6回目の挑戦の末に来日しました。鑑真和上は5度の渡航失敗中に失明しました。来日後の5年間を東大寺で過ごし、大仏殿に戒壇を築き、聖武上皇(第45代・聖武天皇)から僧尼までに菩薩戒を授けました。758年(天平宝字2年)に第47代・淳仁天皇の勅によって大和上に任じられ、政治に囚われる労苦から解放する為に僧尼を管理する僧綱の任が解かれました。759年(天平宝字3年)に新田部親王の旧邸宅跡が与えられると移りました。悲田院を作り、貧民救済にも取り組みました。なお鑑真和上は763年(天平宝字7年)5月6日に76歳で亡くなりました。
【唐招提寺 備考】
*参考・・・唐招提寺(歴史・見どころ・・・)ホームページ