法輪寺の歴史-修学旅行・観光の簡単解説
法輪寺の歴史を時代別年表にまとめ
法輪寺の歴史を簡単にまとめています。法輪寺は「聖徳太子伝私記」によると622年(推古天皇30年)に用明天皇の皇子・聖徳太子が病気になった際、長子・山背大兄王と孫・由義王らが病気平癒を祈願したの起源と言われています。(時代別年表・重要人物下記参照)
法輪寺基本情報
【法輪寺創建(起源・由来)】
- 法輪寺は鎌倉時代前期の1238年(嘉禎4年)に顕真が記した「聖徳太子伝私記」によると飛鳥時代前期の622年(推古天皇30年)に第31代・用明天皇(ようめいてんのう)の皇子・聖徳太子(しょうとくたいし・厩戸皇子(うまやどのおうじ))が病気になった際、聖徳太子の長子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)とその子で、孫・由義王(ゆぎおう)らが聖徳太子の病気平癒を祈願して創建したのが起源とも言われています。なお聖徳太子は飛鳥の里から3つの井戸をこの地に移したことからこの地は三井(みい)と言われ、法輪寺は三井寺(みいでら)とも言われています。法輪寺の西北には聖徳太子が掘ったといわれる井戸が残され、国の史跡に指定されています。
- 法輪寺は平安時代前期成立の「上宮聖徳太子伝補闕記」や平安時代中期の917年(延喜17年)に藤原兼輔(ふじわらのかねすけ)が記した「聖徳太子伝暦」によると670年(天智天皇9年)の法隆寺(ほうりゅうじ・斑鳩寺(いかるがでら))焼失後、百済(くだら)の開法師・円明法師・下氷新物(しもつひのにいもの)が創建したとも言われています。
- 昭和に行なわれた発掘調査により、法輪寺の伽藍配置は法隆寺(ほうりゅうじ)式で、その規模は法隆寺西院伽藍の3分の2でした。出土した鐙瓦・宇瓦の文様が法隆寺と類似していることも分かりました。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】
- 平安時代に十一面観音菩薩(じゅういちめんかんのんぼさつ)立像・弥勒菩薩(みろくぼさつ)立像・地蔵菩薩(じぞうぼさつ)立像・吉祥天(きっしょうてん)立像・米俵毘沙門天(こめだわらびしゃもんてん)立像などが造仏されたと言われ、法輪寺の寺勢は盛んであったとも言われています。
- 928年(延長6年)の「寺家縁起」によると檀越が高橋朝臣で、法輪寺の寺域は北側が氷室池の堤、南側が鹿田池の堤、東側が法起寺の境、西側が板垣の峰でした。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】
- 鎌倉時代の「聖徳太子伝私記」によると金堂・講堂・塔・食堂などが建立され、「建立の様は法隆寺に似たり」と記されています。
【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】
- 1367年(正平22年・貞治6年)に法輪寺が焼失したとも言われています。興福寺(こうふくじ)の塔頭(たっちゅう)・大乗院(だいじょういん)の「大乗院日記目録』によると1367年(正平22年・貞治6年)正月(1月)3日に炎上したことが記されています。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】
- 室町時代末期頃の「大和国夜麻郷三井寺妙見山法輪寺縁起」によると金堂・講堂・塔・中門・北門・鐘楼・鼓楼・経蔵・宝蔵・四面廻廊・僧房・温室などが記され、塔の四面に塑像群が安置されていました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
- 1645年(正保2年)に台風によって金堂・講堂・中門・廻廊・食堂などが倒壊しました。3層目を吹き飛ばされた三重塔だけが残されたと言われています。
- 享保年間(1716年~1736年)に寳祐上人(ほうゆうしょうにん)が法輪寺を復興しました。寶祐上人は妙見信仰に力を入れ、1731年(享保16年)に妙見堂が再建された。
- 1739年(元文4年)に三重塔の修復が開始され、心礎から仏舎利(ぶっしゃり)が発見されました。
- 1760年(宝暦10年)に三重塔の修復が完了しました。
- 1761年(宝暦11年)に金堂が再建され、その後旧講堂・南大門が復興されました。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
- 明治時代に三重塔が国宝に指定されました。
- 1903年(明治36年)に三重塔は解体修理が行われたました。
- 1944年(昭和19年)7月21日に三重塔が雷火によって焼失しました。
- 1950年(昭和25年)に法隆寺(ほうりゅうじ)が法相宗(ほっそうしゅう)から独立して聖徳宗を設立すると法起寺(ほうきじ)とともに聖徳宗に改めました。
- 1975年(昭和50年)3月に三重塔が再建され、同年11月に落慶法要が行われました。
【山背大兄王:法輪寺開基】
山背大兄王は聖徳太子と蘇我馬子の娘・刀自古郎女の子として生まれました。628年(推古天皇36年)に第33代・推古天皇が崩御すると皇位継承問題が起り、蘇我馬子の子・蘇我蝦夷が推す田村皇子 (第34代・舒明天皇) と争って敗れました。641年(舒明天皇13年)に第34代・舒明天皇が崩御するとその皇后・宝姫王(第35代・皇極天皇、第37代・斉明天皇)が即位したが、その後山背大兄王に衆望が集まりました。その後蘇我氏が蘇我馬子の娘・法提郎女と第34代・舒明天皇の子・古人大兄皇子を天皇に即位させ、外戚として権力を保持しようとした為、643年(皇極天皇2年)に蘇我馬子の孫で、蘇我蝦夷の子・蘇我入鹿に斑鳩宮で襲撃され、一時生駒山に逃れたが、法隆寺で一族とともに自害しました。
【法輪寺 備考】
*参考・・・法輪寺(歴史・見どころ・・・)ホームページ