安倍文殊院歴史の簡単マトメ-修学旅行・観光の解説

安倍文殊院桜

安倍文殊院歴史の簡単まとめ

安倍文殊院歴史を簡単にまとめてポイント解説します。安倍文殊院は645年(大化元年)の大化の改新の際、左大臣・安倍倉梯麻呂が第36代・孝徳天皇の勅願により、安倍氏の氏寺として創建したと言われています。なお安倍文殊院歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。

【前史(乙巳の変・大化の改新)】

★飛鳥時代に蘇我氏(そがし・蘇我宗家)は蘇我稲目(そがのいなめ)・蘇我馬子(そがのうまこ)・蘇我蝦夷(そがのえみし)・蘇我入鹿(そがのいるか)の4代に渡って政権を掌握し、蘇我氏への憤りが高まりました。645年(大化元年)の乙巳の変(いっしのへん)で、藤原氏の祖・藤原鎌足(ふじわらのかまたり・中臣鎌足(なかとみのかまたり))、第38代・天智天皇(てんじてんのう)となる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)らが板蓋宮(いたぶきのみや)で蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷を自殺に追いやりました。その後唐(中国)の律令制を手本として、皇族・豪族の私有地・私有民の廃止(公地公民)、国・郡・里の地方行政組織の確立、戸籍・計帳の作製と班田収授法の実施、租・庸・調などによる統一的な税制の実施からなる四か条の改新の詔が公布され、中央集権国家建設(政治改革)が始まります。

【安倍文殊院創建(起源・由来)】

★安倍文殊院は645年(大化元年)の大化の改新の際、左大臣・安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)が第36代・孝徳天皇(こうとくてんのう)の勅願により、安倍氏の氏寺・安倍山崇敬寺(そうきょうじ・安倍寺(あべでら))として創建したと言われています。「東大寺要録(とうだいじようろく)」の末寺章(巻6)によると安倍文殊院は現在よりも南西300メートルの位置に建立され、東側(右側)に金堂、西側(左側)に塔が建立される法隆寺(ほうりゅうじ)式伽藍配置で、大寺院として栄えたと言われています。なお安倍寺跡(桜井市安倍木材団地1丁目)では7世紀に造られた古瓦が出土し、現在は国の史跡公園になっています。

【飛鳥時代(592年~710年)の出来事】

★飛鳥時代前期(7世紀前半)に文殊院東古墳(奈良県指定史跡)が築造されました。文殊院東古墳は古来から閼伽井窟(あかいくつ)と言われ、信仰されました。
★飛鳥時代後期(7世紀中頃)に文殊院西古墳(国指定特別史跡)が築造されました。文殊院西古墳は径約25メートルの円墳で、横穴式石室が露出しています。文殊院西古墳は安倍氏(阿倍氏)の墓とも、安倍倉梯麻呂の墓とも言われています。なお文殊院西古墳では江戸時代まで陰陽師(おんみょうじ)・安倍晴明(あべのせいめい)の母親とされる白狐・信太森葛葉稲荷を祀る稲荷神社が古墳の上に建立されていました。

スポンサーリンク(Sponsor Link)

【平安時代(794年頃~1185年頃)の出来事】

★平安時代中期に陰陽師・安倍晴明が安倍文殊院で生れたとも言われています。また安倍晴明が安倍文殊院で陰陽道の修行をしたとも言われています。安倍晴明は921年(延喜21年)に大膳大夫(だいぜんだいぶ)・安倍益材(あべのますき)または淡路守(あわじのかみ)・安倍春材(あべのはるき)の子として摂津国阿倍野(大阪市阿倍野区)または大和安倍(国奈良県桜井市安倍)に生まれたとも言われています。また右大臣・阿倍御主人(あべのみうし)の子孫とも、遣唐留学生・阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)の子孫とも言われています。陰陽師である賀茂忠行(かものただゆき)・賀茂保憲(かものやすのり)に陰陽道を学び、天文道を伝授されたと言われています。その後第62代・村上天皇(むらかみてんのう)に占いを命じられ、970年(安和3年)頃に天文博士になり、977年(貞元2年)に賀茂保憲が亡くなると頭角を現しました。979年(天元2年)に皇太子・師貞親王(もろさだしんのう、第65代・花山天皇(かざんてんのう))の命により、和歌山・那智山(なちさん)の天狗を封ずる儀式を行いました。993年(正暦4年)に病気になった第66代・一条天皇(いちじょうてんのう)の禊に奉仕し、回復したことから正五位上に叙され、1004年(寛弘元年)に干ばつが続いたことから一条天皇の命によって雨乞いの五龍祭を行うと雨が降り、贈り物である被物を賜りました。息子である安倍吉昌(あべのよしまさ)・安倍吉平(あべのよしひら)も陰陽助になり、安倍氏は賀茂氏と並ぶ陰陽道の家としての地位を確立しました。なお安倍晴明は1005年(寛弘2年)に亡くなりました。
★平安時代末期に多武峰妙楽寺(とうのみねみょうらくじ・談山神社(たんざんじんじゃ))の僧兵による焼き討ちにより、安倍文殊院が全焼しました。

【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の出来事】

★鎌倉時代に安倍文殊院は崇敬寺(安倍寺)智足院の別院・満願寺が建立されていた現地の場所に移りました。安倍文殊院が東大寺の末寺だった為、東大寺の伽藍復興に尽力した東大寺中興の祖・俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)のゆかりで、仏師・快慶が本尊・騎獅文殊菩薩(きしもんじゅぼさつ)像を造仏しました。満願寺は別名を文殊堂とも言われました。快慶は1203年(建仁3年)7月24日から10月3日に東大寺の南大門に安置されている金剛力士(こんごうりきし・仁王(におう))像の造仏に大仏師として携わり、同時期に騎獅文殊菩薩を造仏したと言われています。騎獅像は高さが約7メートルあり、日本最大と言われています。なお安倍文殊院は京都・天橋立の切戸文殊、山形の亀岡文殊とともに日本三文殊に数えられ、「安倍の文殊さん」として親しまれています。
★鎌倉時代に安倍文殊院は「興福寺官務牒疏(こうふくじかんむちょうそ)」によると塔頭(たっちゅう)が28坊存在し、大和十五大寺に数えられて栄えていました。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の出来事】

★1563年(永禄6年)に大和国の戦国大名・松永久秀(まつながひさひで・松永弾正(まつながだんじょう))による兵火により、安倍文殊院が焼失しました。本尊・騎獅文殊菩薩など幾つかの仏像は焼失を免れたが、伽藍がほぼ全焼し、安倍文殊院は衰微します。
★室町時代に白山堂が建立されました。

【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の出来事】

★安土桃山時代に本坊(奈良県指定有形文化財)が建立されました。本坊は大神神社(おおみわじんじゃ)の神宮寺・大御輪寺(だいごりんじ・大直禰子神社(おおたたねこじんじゃ))の客殿として建立され、1868年(明治元年)に大御輪寺が廃寺になると安倍文殊院に移築されました。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事】

★1665年(寛文5年)に現在の本堂(桜井市指定有形文化財)が再建されました。本堂は満願寺の本堂として建立され、快慶作の騎獅文殊菩薩・脇侍(維摩居士(最勝老人)・須菩提(仏陀波利三蔵))像を安置しました。

【明治時代以降(1868年頃~)の出来事】

★明治維新後の神仏分離令・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、かつて敵対していた多武峰妙楽寺が廃寺になって談山神社に改められ、1883年(明治16年)に本尊・阿弥陀三尊(あみださんぞん)像が安倍文殊院に移されました。ただ阿弥陀三尊は釈迦三尊像(桜井市指定有形文化財)として、現在も安置されています。
★1985年(昭和60年)に金閣浮御堂(仲麻呂堂)が文殊池の中に建立されました。
★2004年(平成16年)に安倍晴明堂が安倍晴明1,000回忌を迎えるにあたり、200年振りに再建されました。
★2010年(平成22年)に本尊・騎獅文殊菩薩が造仏以来、800余年目にして初めて修理されました。その際に巨大な獅子から降りた文殊菩薩が公開されました。
★2010年(平成22年)に安倍氏とゆかりあるとされる第90代内閣総理大臣・安倍晋三(あべしんぞう)が石燈籠を寄進しました。

【安倍倉梯麻呂:安倍文殊院開基】

安倍倉梯麻呂は阿倍内麻呂とも言われ、大鳥大臣とも号したと言われています。倉梯は大和国十市郡(奈良県桜井市倉橋)の地名です。安倍倉梯麻呂は大夫・阿倍鳥の子として生れたとも言われています。624年(推古天皇32年)に蘇我馬子が第33代・推古天皇に葛城県の譲渡を要求した際、阿曇氏とともに天皇に要求を上奏したと言われています。ただ推古天皇は要求を拒否しました。645年(大化元年)の乙巳の変で蘇我入鹿が暗殺され、蘇我蝦夷が自害して、蘇我本宗家が滅亡すると第36代・孝徳天皇が即位し、中大兄皇子が皇太子になり、安倍倉梯麻呂は左大臣に任命されました。大化の改新で主導的地位に立ち、亡くなるまでその地位にありました。648年(大化4年)に四天王寺に四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)を招いて法要を行ないました。また第37代・斉明天皇(第5代・皇極天皇)の時代(655年~661年)に穂積百足とともに百済大寺(大安寺)の造寺司に任命されました。娘・小足媛は孝徳天皇の妃になって、有間皇子を生み、娘・橘娘は第38代・天智天皇の妃になって、飛鳥皇女・新田部皇女を生みました。なお安倍倉梯麻呂は649年(大化5年)に亡くなりました。

【安倍文殊院 備考】
*参考・・・千本ゑんま堂(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

関連記事

奈良観光おすすめ

  1. 柳生一刀石
  2. 若草山(Mt. Wakakusa-yama)
  3. 吉野山
ページ上部へ戻る