朝護孫子寺歴史-修学旅行・観光ポイント

朝護孫子寺

朝護孫子寺の時代別年表と重要人物

朝護孫子寺歴史を簡単にマトメてポイント解説します。朝護孫子寺は聖徳太子が物部守屋を討伐する際、信貴山で戦勝祈願をすると毘沙門天が出現し、必勝の秘法を授けられて勝利したことから自ら毘沙門天を刻んで創建したと言われています。なお朝護孫子寺歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。

【前史(聖徳太子)】

★582年(敏達天皇11年)、寅(とら)の年、寅の月、寅の日、寅の刻に第31代・用明天皇(ようめいてんのう)の皇子・聖徳太子(しょうとくたいし・厩戸皇子(うまやどのおうじ))が持国天(じこくてん)・増長天(ぞうじょうてん)・広目天(こうもくてん)とともに四天王(してんのう)に数えられる毘沙門天(びしゃもんてん)を信貴山(しぎさん)で感得したと言われています。

【朝護孫子寺創建(起源・由来)】

★朝護孫子寺は寺伝によると聖徳太子が仏敵・物部守屋(もののべのもりや)を討伐する際、河内稲村城に向かう途中の信貴山で戦勝祈願をすると天空から毘沙門天が出現し、必勝の秘法を授けられて勝利し、587年(用明天皇2年)7月3日に聖徳太子が自ら毘沙門天を刻んで、信貴山の守護本尊として祀ったのが起源と言われています。ちなみに聖徳太子は「信ずべき貴ぶべき山」として、信貴山と名付けたとも言われています。

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【平安時代(794年頃~1185年頃)の出来事】

★910年(延喜10年)に朝護孫子寺中興・命蓮上人(みょうれんしょうにん)が毘沙門堂などの伽藍を整備したと言われています。また命蓮上人が勅命により、重病だった第60代・醍醐天皇(だいごてんのう)の為に毘沙門天に病気平癒の祈願し、平癒したことから醍醐天皇の「朝廟安穏・守護国土・子孫長久」の祈願寺とされ、勅号「朝護孫子寺」を賜りました。加持満願の日に剱鎧護法の使者が醍醐天皇の枕元に出現し、霊感を授けられると重病が平癒したとも言われています。ちなみに「扶桑略記(ふそうりゃくき)平安時代末期成立」の延長8年(930年)8月19日条に沙弥命蓮が醍醐天皇の病気平癒の為に祈祷を行ったことが記されています。なお醍醐天皇は930年(延長8年)7月に菅原道真(すがわらのみしざね)の祟りとも言われる清涼殿落雷事件(せいりょうでんらくらいじけん)が起こると体調を崩し、10月16日に皇太子・寛明親王(第61代天・朱雀天皇(すざくてんおう))に譲位し、7日後の10月23日に出家とともに崩御しました。
★1150年(久安6年)頃に国宝「信貴山縁起絵巻(三巻)」が完成したとも言われています。

【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の出来事】

★1333年(元弘3年・正慶2年)に南朝初代で、第96代・後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の皇子・大塔宮護良親王(おおとうのみやもりよししんのう))が在陣勤王の士を信貴山に集めたと言われています。楠木正成(くすのきまさしげ)が朝護孫子寺・信貴山を信仰していたと言われています。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の出来事】

★1532年(享禄5年)頃に筒井順昭(つついじゅんしょう)・武田信玄(たけだしんげん)らが朝護孫子寺・信貴山を信仰していたと言われています。

【戦国時代(1493年頃~1590年頃)の出来事】

★戦国時代に木沢長政(きざわながまさ)が信貴山頂に信貴山城を築城したと言われています。
★1577年(天正5年)10月に信貴山城主・松永久秀(まつながひさひで)と織田信長(おだのぶなが)による信貴山攻防戦により、松永久秀が自害し、朝護孫子寺も一山堂塔(堂塔60余宇)が全焼しました。なお松永久秀は信貴山雄嶽の山頂に築城されていた信貴山城本丸の天守で自害し、現在は空鉢護法堂(空鉢堂)が建立されています。

【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の出来事】

★1592年(天正20年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が本堂を再建しました。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事】

★1602年(慶長7年)に豊臣秀吉の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)が片桐且元(かたぎりかつもと)を奉行として本堂を再建し、1610年(慶長15年)に伽藍が完成したと言われています。また1610年(慶長15年)に豊臣秀頼が朝護孫子寺を祈願所として、本堂などの諸堂を再建したとも言われています。
★1687年(貞享4年)に鐘楼堂が再建されました。
★1689年(元禄2年)に多宝塔が建立されました。
★1722年(享保17年)に開山堂が建立されました。
★1746年(延享3年)に本堂が改築されました。
★1760年(宝暦10年)に仁王門が再建されました。
★1793年(寛政5年)に赤門が再建されました。
★安政年間(1855年~1860年)に本坊 絵馬堂(納経所)が大阪堂島・木綿屋梅蔵の寄進によって建立されました。

【明治時代以降(1868年頃~)の出来事】

★1881年(明治14年)に仁王門が修理され、1922年(大正11年)に仁王門が現在の場所に移築されました。
★1882年(明治15年)に多宝塔が修復されました。
★1922年(大正11年)に信貴山の総鎮守で、式内社であった猪上神社が現在の場所に転座されました。
★1931年(昭和6年)にトレッスル橋脚を持つ日本最古のカンチレバー橋である全長約106メートル・幅約4メートルの開運橋が竣工しました。
★1951年(昭和26年)に高野山真言宗(こうやさんしんごんしゅう)から独立し、信貴山真言宗を創始しました。また同年に本堂が焼失しました。
★1958年(昭和33年)に本堂が再建され、落慶法要が行われました。
★1970年(昭和45年)に信徒会館が竣工しました。
★1997年(平成9年)に本坊が改修されました。

【聖徳太子:朝護孫子寺開基】

聖徳太子は574年(敏達天皇3年)に第31代・用明天皇と穴穂部間人の間に生まれました。幼少時から聡明で、仏法を尊んだと言われています。585年(用明天皇元年)に第30代・敏達天皇が崩御すると父が即位したが、 587年(用明天皇2年)に崩御しました。593年(崇峻天皇5年)に叔母である第33代・推古天皇が即位すると皇太子・摂政になり、敏達天皇から推古天皇までの4代に仕えて権勢を振るった蘇我馬子ととともに天皇を補佐しました。聖徳太子は内政・外交などの政治に尽力し、603年(推古天皇11年)に冠位十二階、604年(推古天皇12年)に十七条憲法を制定したり、607年(推古天皇15年)に小野妹子を遣隋使として派遣したりしました。また聖徳太子は仏教に深く帰依し、聖徳太子建立七大寺を創建したり、「三経義疏」を著したりして仏教の振興に尽くしました。聖徳太子は622年(推古天皇30年)に斑鳩宮で亡くなりました。

【朝護孫子寺 備考】
*参考・・・朝護孫子寺(アクセス・見どころ・・・)ホームページ

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