當麻寺の歴史は麻呂古親王が万法蔵院を河内に創建したのが起源

當麻寺(Taimadera Temple)

當麻寺の時代別年表と重要人物

當麻寺は612年(推古天皇20年)に麻呂古親王が兄・聖徳太子の教えにより、救世観音を本尊とする万法蔵院を河内に創建したのが起源です。當麻寺は白鳳時代(645年~710年)に河内から當麻に移ったとも言われています。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。

當麻寺見どころ

【當麻寺が建立されている場所】

  • 當麻寺が建立されている場所はかつて修験道(しゅげんどう)の祖である役行者(えんのぎょうじゃ)・役小角(えんのおづの)の私領だったと言われています。當麻は役行者・役小角の最初の修行地だったと言われています。なお役行者・役小角の所持していた孔雀明王(くじゃくみょうおう)は本尊・弥勒仏(みろくぶつ)の胎内に納められたと言われています。

【當麻寺の起源・始まり】

  • 當麻寺は飛鳥時代前期の612年(推古天皇20年)に第31代・用明天皇(ようめいてんのう)の第3皇子・麻呂古親王(まろこしんのう)が異母兄・聖徳太子(しょうとくたいし・厩戸皇子(うまやどのおうじ))の教えにより、救世観音(ぐぜかんのん)を本尊とする万法蔵院(まんぽうぞういん)を河内(大阪)に創建したのが起源と言われています。當麻寺は白鳳時代(645年~710年)に河内から當麻(奈良)に移ったとも言われています。大阪府太子町に万法蔵院跡と伝承される場所があります。
  • 當麻寺は大海人皇子(おおあまのみこ(第40代・天武天皇(てんむてんのう))と第38代・天智天皇(てんぢてんのう)の皇子・大友皇子(おおとものおうじ(第39代・弘文天皇(こうぶんてんのう)))が皇位を争った672年(天武天皇元年)の壬申の乱(じんしんのらん)で功績があった当麻国見(たいまのくにみ)が氏寺として創建したのが起源とも言われています。なお麻呂古親王はある時、万法蔵院を二上山(にじょうざん・ふたかみやま)東麓に移すようにという夢を見て、役行者・役小角から当麻の領地を寄進され、當麻寺の建立を始めたが、壬申の乱によって建立が遅れ、麻呂古親王が亡くなった後は孫・当麻国見に引き継がれ、681年(白鳳9年)に金堂に本尊・弥勒仏(みろくぶつ)を祀ったのが當麻寺の起源とも言われています。役行者の法力により、百済(くだら)から四天王(してんのう)が飛来し、葛城山(かつらぎさん)から一言主明神(ひとことぬしみょうじん)が現れ、熊野から権現(ごんげん)さまとして竜神(りゅうじん)が出現したとも言われています。役行者が座った石・影向石(ようごうせき)が金堂の前、熊野権現が出現した竜神社が中之坊に残されています。
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【飛鳥時代(592年~710年)の出来事】

  • 673年(天武天皇2年)に役行者・役小角から土地を寄進され、685年(天武天皇14年)に當麻寺の建立が開始され、687年(天武16年)に寺名が當麻寺に改められたとも言われています。また692年(朱鳥6年)頃に現在の場所の南側にある味曽地から現在の場所に移されたとも言われています。

【奈良時代(710年頃~794年頃)の出来事】

  • 763年(天平宝字7年)に當麻曼荼羅(たいままんだら・當麻曼荼羅)が作られました。當麻曼荼羅は藤原家の郎女・中将姫(ちゅうじょうひめ)が写経の功徳により、目の当たりにした極楽浄土(ごくらくじょうど)の光景を壮大な規模で表したものです。なお中将姫は美しく、聡明だったが、継母からいじめれ、父・藤原豊成(ふじわらのとよなり)の従者に殺害され掛かります。しかし従者は極楽往生を願って読経する中将姫を憐れみ、ひばり山に置き去りにし、改心した父・藤原豊成が連れ戻します。しかし中将姫は當麻寺に出家し、當麻曼荼羅を蓮の糸を使って一夜で織り上げ、29歳の時に現れた生身の阿弥陀仏(あみだぶつ)と二十五菩薩(にじゅうごばさつ)とともに極楽浄土に旅立ったと言われています。
  • 奈良時代に東塔・西塔・千手堂(曼荼羅堂)・中院(中之坊)などが建立されました。

【平安時代(794年頃~1185年頃)の出来事】

  • 823年(弘仁14年)に真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)が曼荼羅を拝し、三論宗(さんろんしゅう)から真言宗に改められたとも言われています。
  • 1005年(寛弘2年)に恵心僧都(えしんそうず)・源信(げんしん)が迎講を行い、練供養会式(ねりくようえしき)の起源になったと言われています。
  • 1161年(永暦2年)に本堂(曼荼羅堂)が建立されました。
  • 1180年(治承4年)に平重衡(たいらのしげひら)による南都焼き討ちにより、金堂などの伽藍の一部を焼失しました。その後中将姫伝説の広まりとともに曼荼羅信仰の寺として再興されました。
  • 平安時代に40余房もの僧坊をもつ大寺院に発展しました。

【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の出来事】

  • 1191年(建久2年)に「建久御巡礼記」によると興福寺(こうふくじ)の僧・実叡が第74代・鳥羽天皇(とぼてんのう)の皇女・八条院とともに當麻寺を参詣したと言われています。
  • 1223年(貞応2年)に浄土宗西山派の祖・証空が「當麻曼荼羅註」を著し、當麻曼荼羅の写しを十数本制作し諸国に安置しました。
  • 鎌倉時代に當麻曼荼羅が信仰を集めました。

【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の出来事】

  • 1370年(正平25年・応安3年)に京都・知恩院(ちおいん)12世の誓阿普観(せいあふかん)が往生院(奥院)を建立し、真言宗と浄土宗(じょうどしゅう)の二宗兼学になりました。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事】

  • 宝暦年間(1751年~1764年)に真言宗の僧侶のみで行われていた曼荼羅堂の法会参集に浄土宗の僧侶の参加が認められました。
  • 江戸時代に31房の僧坊がありました。

【明治時代以降(1868年頃~)の出来事】

  • 現在、當麻寺には真言宗子院(中之坊・西南院・松室院・不動院・竹之坊)と浄土宗子院(念仏院・護念院・来迎院・極楽院・奥院・千仏院・宗胤院・紫雲院)の13坊があります。

【當麻寺の開基とされる麻呂古親王】

麻呂古親王(麻呂古王・当麻皇子)は574年(敏達天皇3年)頃に第31代・用明天皇の第3皇子として生まれたとも言われています。麻呂古親王は聖徳太子の異母弟になり、妻は第29代・欽明天皇の皇女・舎人皇女です。子孫には当麻氏や平田党武家当麻高田氏などがいます。602年(推古天皇10年)に異母弟で、征新羅大将軍・来目皇子が亡くなったことから翌603年(推古天皇11年)に征新羅将軍に任命されました。大阪難波から出航したが、播磨国 (兵庫) で妻が亡くなったことから戻り、そのまま赴任せずに新羅遠征は中止になったと言われています。なお麻呂古親王は586年(用明天皇元)以前に亡くなったとも言われています。

【當麻寺 備考】
*参考・・・當麻寺(歴史・見どころ・・・)ホームページ

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