手向山八幡宮の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

手向山八幡宮

手向山八幡宮の歴史を時代別年表で紹介。

手向山八幡宮の歴史を簡単にまとめています。手向山八幡宮は東大寺の大仏造立の際、749年(天平勝宝元年)に大分・宇佐八幡宮から勧請され、平城宮の南にあった梨原宮に東大寺の守護神として建立されました。なお修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。

【前史(東大寺)】

★東大寺(とうだいじ)は728年(神亀5年)に第45代・聖武天皇(しょうむてんのう)と光明皇后(こうみょうこうごう)の間に生まれた皇太子・基皇子(もといのみこ)の菩提(ぼだい)を追修する為、金鍾寺(こんしゅじ)が創建され、初代別当・良弁僧正(ろうべんそうじょう)ら9人の僧が住したのが起源とも言われています。その後741年(天平13年)に国分寺(金光明寺)・国分尼寺(法華寺)建立の詔(みことのり)が発せられ、翌742年(天平14年)に金鍾寺が大和国分寺になり、名称を大和金光明寺(きんこうみょうじ)に改められました。743年(天平15年)に大仏造立の詔が発せられ、滋賀県甲賀市信楽町・紫香楽宮(しがらきのみや)で大仏の造立が開始されたが、745年(天平17年)に都が恭仁京(くにきょう)から平城京(へいじょうきょう)に戻されると東大寺で大仏の造立が開始されました。

【手向山八幡宮創建(起源・由来)】

★手向山八幡宮は東大寺で大仏造立が開始された際、749年(天平勝宝元年)に大分県・宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)から勧請され、平城宮の南にあった梨原宮(なしはらのみや)に東大寺の守護神として建立されました。ちなみに梨原宮の所在地は明確ではないが、奈良市役所近くの平城京左京三条二坊宮跡庭園(へいじょうきょうさきょうさんじょうにぼうみやあとていえん)がその跡地とも言われています。平城京左京三条二坊宮跡庭園では1975年(昭和50年)から5回発掘調査が行われ、奈良時代(710年~794年)中期頃の庭園遺跡から大規模な玉石敷池1、建物12棟、塀7条、井戸2基、溝8条、土壙などが発見されました。また宇佐八幡宮から勧請した八幡神は一条通から東大寺の転害門(てんがいもん)を通ったとも言われています。転害会では転害門が御旅所(おたびしょ)とされました。手向山八幡宮は宇佐八幡宮の分社では第一号とされ、鎮守八幡宮とも言われていたそうです。また手向山八幡宮はかつて東大寺八幡宮とも言われていました。なお東大寺の大仏は749年(天平勝宝元年)10月に仏身が鋳造され、752年(天平勝宝4年)にインド出身の僧・菩提僊那(ぼだいせんな)を導師として、大仏開眼供養会(だいぶつかいげんくようえ)が行われました。

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【奈良時代(710年頃~794年頃)の歴史・出来事】

★奈良時代に宝庫(重要文化財)が建立されました。宝庫は元々、東大寺の油倉の上司倉だったと言われています。北側には規模・形式が類似した東大寺の法華堂経庫も建立されています。
★奈良時代以降に手向山八幡宮は東大寺の鏡池(かがみいけ)付近に移されました。

【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】

★平安時代前期に菅原道真(すがわらのみちざね)が宇多上皇(第59代・宇多天皇(うだてんのう)が奈良に行幸した際、手向山八幡宮や手向山の紅葉の美しさを「このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに」と詠み、平安時代前期の勅撰和歌集「古今和歌集(こきんわかしゅう)」に収録されています。ちなみに菅原道真は菅公腰掛石に座ったとも言われています。
★1180年(治承4年)に平重衡(たいらのしげひら)による南都焼き討ちにより、東大寺の大仏殿などとともに手向山八幡も焼失しました。
★1188年(文治4年)に東大寺再建勧進職・俊乗坊重源上人(しゅんじょうぼうちょうげんしょうにん)が手向山八幡宮の仮殿を建立しました。なお俊乗坊重源上人は1181年(治承4年)から東大寺の大仏修理・大仏殿再建の勧進を開始し、1182年(治承5年)に大仏の修理が開始され、1185年(文治元年)に大仏の開眼供養が行われ、1190年(建久元年)に大仏殿の再建が完了し、1195年(元禄7年)に大仏殿の落慶法要が行われました。

【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】

★1197年(建久8年)に社殿が再建されました。
★1201年(建仁元年)に仏師・快慶(かいけい)が御神体・木造僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)像(国宝)を造立しました。なお社殿再建の際、俊乗坊重源上人は真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)作で、京都・神護寺(じんごじ)が有し、その後鳥羽勝光院にあった八幡神画像の下賜を朝廷に申し出ていたそうです。
★1250年(建長2年)には鎌倉幕府5代執権・北条時頼(ほうじょうときより)が東大寺の千手院(千手堂)跡である現在の場所に手向山八幡宮を移しました。なお手向山八幡宮は1237年(嘉碵3年)に東大寺3代勧進職・退耕行勇の沙汰により、千手院岡(手向山) に移されたとも言われています。
★鎌倉時代に住吉三神を祀る住吉社(重要文化財)が建立されました。
★中世(鎌倉時代)以降に東大寺の衆徒が都に強訴をする際、手向山八幡宮の神輿を奉じたと言われています。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

★1691年(元禄4年)に東大寺大勧進職・公慶上人(こうけいしょうにん)が現在の本殿(奈良県指定有形文化財)を再建しました。公慶上人は東大寺の大仏再鋳造・大仏殿再建も行ないました。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

★明治維新後の神仏分離(廃仏毀釈)により、1871年(明治4年)に手向山八幡宮が東大寺から独立し、県社に列せられました。東大寺の塔頭(たちゅう)・東南院(本坊)に祀られていた江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)を祭神とする東照宮は天皇殿とされ、東照宮の社殿・祭神が手向山八幡宮に移されました。また手向山八幡宮の御神体・木造僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)像(国宝)は手向山八幡宮から東大寺の勧進所八幡殿に移されました。ちなみに10月5日の転害会(てがいえ)では木造僧形八幡神が八幡殿で特別開扉されます。(要確認)なお僧形八幡神坐像は桧(ひのき)製で、像高約87.1センチです。僧形八幡神坐像は一見、地蔵菩薩(じぞうぼさつい)を思わせる姿で、右衽(うじん)の衣の上に袈裟(けさ)を懸け、右手に錫杖(しゃくじょう)を執り、左手は膝のやや内寄りに置いて数珠(じゅず)を繰っています。

【第45代・聖武天皇】

第45代・聖武天皇は701年(大宝元年)に第42代・文武天皇と藤原不比等の娘・宮子の間に第1皇子として生まれ、724年(神亀元年)に天皇に即位し、その後皇族皇后の慣習を破って、藤原不比等の娘・安宿媛を非皇族初の皇后にしました。聖武天皇は仏教に深く帰依し、国分寺・国分尼寺建立の詔や大仏造立の詔を発し、749年(天平勝宝元年)に娘・阿倍内親王(第46代・孝謙天皇)に譲位して出家し、756年(天平勝宝8年)5月2日に56歳で崩御しました。ちなみに聖武天皇は生前譲位した初の男性天皇とされています。

【手向山八幡宮 備考】
*参考・・・手向山八幡宮(アクセス・見どころ・・・)ホームページ

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