橘寺の歴史-修学旅行・観光の簡単解説
橘寺の歴史を時代別年表で紹介。
橘寺の歴史を簡単にまとめています。橘寺は寺伝によると飛鳥時代に第31代・用明天皇の皇子・聖徳太子(厩戸皇子)が第33代・推古天皇の命により、父・用明天皇の別宮を寺院に改めたのが起源とも言われています。なお橘寺歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。
【前史(聖徳太子)】
★橘寺が建立されている場所一帯にはかつて第29代・欽明天皇(きんめいてんのう)の別宮・橘の宮がありました。572年(敏達天皇元年)に聖徳太子(しょうとくたいし・厩戸皇子(うまやどのおうじ))が欽明天皇の第4皇子・橘豊日命(たちばなのとよひのみこと、第31代・用明天皇(ようめいてんのう))と穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の間に生れたと言われています。なお聖徳太子は仏教を厚く信仰し、615年(推古天皇23年)に「法華義疏(ほっけぎしょ)」、611年(推古天皇19年)に「勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ)」、613年(推古天皇21年)に「維摩経義疏(ゆいまきょうぎしょ)」を著したとも言われ、「法華義疏」・「勝鬘経義疏」・「維摩経義疏」は「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」と総称されています。聖徳太子が勝鬘経を講讃した際、日・月・星の光を放ったとも言われ、境内にはゆかりの三光石が残されています。
【橘寺創建(起源・由来)】
★橘寺は寺伝によると飛鳥時代に聖徳太子(厩戸皇子)が第33代・推古天皇(すいこてんのう)の命により、父・用明天皇の別宮を寺院に改めたのが起源とも言われています。また606年(推古天皇14年)に聖徳太子が推古天皇の命により、大乗仏教経典「勝鬘経(しょうまんきょう)」を3日間に渡って講釈した際、天から大きな蓮が庭に降り積もったり、南の山に千の仏頭が現れて光明を放ったりする不思議なことが起こり、推古天皇が聖徳太子に橘寺の創建を命じたとも言われています。ちなみに日本最古の正史「日本書紀(にほんしょき)・720年(養老4年)完成」の天武天皇9年(680年)4月条に「橘寺尼房失火、以焚十房(橘寺の尼房から失火し、十房が焼失した)」と記され、この記述が文献上の初見とされ、橘寺は飛鳥時代後期の680年(天武天皇9年)には既に創建されていたと言われています。橘寺は法隆寺(ほうりゅうじ・斑鳩寺(いかるがでら))・広隆寺(こうりゅうじ・蜂丘寺(はちおかでら))・法起寺(ほうきじ・池後寺(いけじりでら))・四天王寺(してんのうじ)・中宮寺(ちゅうぐうじ)・葛木寺(かつらぎじ)とともに聖徳太子建立七大寺に数えられています。橘寺の名称は第11代・垂仁天皇(すいにんてんのう)の命により、不老不死の果物を取りに行った田道間守(たじまもり)が常世(とこよ)の国から持ち帰った橘(非時香菓・ときじくのかくのみ)の実を植えたことに由来します。なお発掘調査により、橘寺は東側を正面とし、中門・塔・金堂・講堂が東西に一直線に並ぶ四天王寺(してんのうじ)式伽藍配置または山田寺式伽藍配置だったと言われています。金堂と講堂の間に回廊があれば、山田寺(やまだでら)式伽藍配置になります。出土した古瓦から橘寺の創建は7世紀半ば以降に本格化したと言われています。古瓦は川原寺が創建された際の瓦と同笵品が見られたり、川原寺の伽藍中軸線が橘寺北門の中軸線と一致したりすることから僧寺(男僧)の川原寺と尼寺の橘寺が一対だったとも言われています。
【飛鳥時代(592年~710年)の歴史・出来事】
★680年(天武天皇9年)に「日本書紀」によると火災に見舞われたと言われています。
【奈良時代(710年頃~794年頃)の歴史・出来事】
★奈良時代頃(8世紀)に飛鳥寺には66の堂塔が建ち並び、皇族・貴族の庇護を受けて栄えていました。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】
★1148年(久安4年)に五重塔が落雷によって焼失しました。美しいタチバナ形の塔心礎が残されています。心礎の柱孔は円柱の周囲三方に添柱が付されています。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】
★文治年間(1185年~1189年)に五重塔に代わり、三重塔が建立されました。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】
★1506年(永正3年)に室町幕府管領・細川政元(ほそかわまさもと)の家臣・赤沢朝経(あかざわともつね)が多武峰妙楽寺(とうのみねみょうらくじ・談山神社(たんざんじんじゃ))を攻めた際、橘寺の僧が赤沢軍を支援したことから多武峰妙楽寺(談山神社)の衆徒によって焼き討ちされました。以降、橘寺は衰退したと言われています。
★1515年(永正12年)に椿井舜慶が木造聖徳太子坐像を造立しました。木造聖徳太子坐像は35歳の聖徳太子が「勝鬘経」を講讃した姿とされています。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
★1864年(元治元年)に本尊・聖徳太子坐像(重要文化財)を安置する現在の本堂(太子堂)・木造如意輪観音(にょいりんかんのん)坐像(重要文化財)を安置する観音堂が再建されました。聖徳太子は如意輪観音の化身(けしん)とされ、如意輪観音は新西国三十三箇所の第10番札所になっています。ちなみに如意輪観音坐像の6本の手は六道(地獄道(じごくどう)・餓鬼道(がきどう)・畜生道(ちくしょうどう)・修羅道(しゅらどう)・人間道(にんげんどう)・天道(てんどう))に対応しています。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
★1997年(平成9年)に往生院・聖倉殿(収蔵庫)が建立されました。
★2023年(令和4年)に観音堂が修復されました。
【聖徳太子(厩戸皇子):橘寺開基】
聖徳太子(厩戸皇子)は574年(敏達天皇3年)に第31代・用明天皇と第29代・欽明天皇の第3皇女で、皇后・穴穂部間人の第2皇子として生まれました。幼少時から聡明で、仏法を尊んだと言われています。585年(用明天皇元年)に第30代・敏達天皇が崩御すると父が第31代・用明天皇に即位したが、 587年(用明天皇2年)に崩御しました。593年(崇峻天皇5年)に叔母で、史上初の女帝である第33代・推古天皇が即位すると皇太子・摂政になって補佐しました。聖徳太子は内政・外交などの政治に尽力し、603年(推古天皇11年)に冠位十二階、604年(推古天皇12年)に十七条憲法を制定したり、607年(推古天皇15年)に小野妹子を遣隋使として派遣したりしました。また仏教に深く帰依し、聖徳太子建立七大寺(法隆寺(斑鳩寺)・広隆寺(蜂丘寺)・法起寺(池後寺)・四天王寺・中宮寺・橘寺・葛木寺)を創建したり、「三経義疏」を著したりして仏教の振興に尽くしました。なお聖徳太子は622年(推古天皇30年)に亡くなりました。
【橘寺 備考】
*参考・・・橘寺(アクセス・見どころ・・・)wikipedia