広瀬大社歴史-修学旅行・観光ポイント
広瀬大社の時代別年表と重要人物
広瀬大社歴史を簡単にマトメてポイント解説します。広瀬大社は紀元前89年(崇神天皇9年)に広瀬臣藤時に信託があり、水足池が一夜に陸地に変わって橘が生え、天皇に伝わり、大御膳神として社殿を建立したのが起源とも言われています。なお修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。
【前史(蓮台野)】
★広瀬大社が建立されている場所は奈良盆地を流れる高田川(たかだがわ)・曽我川(そががわ)・飛鳥川(あすかがわ)などの多くの河川が合流して大和川(やまとがわ)になり、古代からの交通の要衝でした。
【広瀬大社創建(起源・由来)】
★広瀬大社は社伝によると紀元前89年(崇神天皇9年)に広瀬の河合の里長・広瀬臣藤時(ひろせのおみふじとき・廣瀬臣藤時)に信託があり、沼地であった水足池(みずたるのいけ)が一夜にして陸地に変わり、橘(たちばな)が数千株生え、そのことが第10代・崇神天皇(すじんてんのう)に伝わり、大御膳神として社殿が建立されたのが起源とも言われています。広瀬大社は広瀬の水神とも言われ、龍田の風神(龍田大社)と並び称されたそうです。なお水足池は現在の拝殿西側にある小池とされ、橘は広瀬大社の社紋になっています。
【飛鳥時代(592年~710年)の歴史・出来事】
★白鳳時代(645年~710年)に饒速日命社(にぎはやひのみことしゃ)が境外末社として祀られました。
★675年(天武天皇4年)4月10日に小錦中間人連大蓋が派遣され、大山中曽根連韓犬を斎主として大忌神(おおいみのかみ)を広瀬の河曲に祀ったのが4月4日・7月4日に行われた祭礼・大忌祭(おおいみのまつり)の起源とも言われています。大忌祭は戦国時代に途絶えるまで朝廷から使者が派遣され、祭祀が行われていました。なお第40代・天武天皇(てんむてんのう)以降、歴代天皇が風雨の調和・年穀の豊穣などの祭祀を行なったり、国家の瑞祥や禍害の度に奉告・祈願を行ったりしたと言われています。
★684年(天武天皇13年)7月に日本最古の正史「日本書紀(にほんしょき)・奈良時代成立」によると第40代・天武天皇が広瀬大社に行幸したと言われています。行幸の際に広瀬川(ひろせがわ・大和川)に架橋し、龍駕が奉納されたことからこの地を御幸瀬(ごごかぜ)と称し、橋を御幸橋(みゆきばし)と名付けられたそうです。
★691年(持統天皇5年)に水分神社(みくまりじんじゃ)が境外摂社として祀られました。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】
★822年(弘仁13年)8月3日に「日本紀略(にほんきりゃく)」によると「広湍神(廣湍神)」と記され、神階が従五位下に叙されました。
★850年(嘉祥3年)7月11日に「日本文徳天皇実録(にほんもんとくてんのうじつろく)」によると「若宇加乃売命神」と記され、神階が従五位上に昇叙しました。
★852年(仁寿2年)7月25日に「日本文徳天皇実録」によると「若宇加乃売命神」と記され、神階が従四位下に昇叙し、同年10月2日に神階が従三位に昇叙しました。
★859年(叙天安3年)1月27日に「日本三代実録(にほんさんだいじつろく)」によると「広瀬神(廣瀬神)」と記され、神階が正三位昇叙しました。また同年9月8日に勅使が派遣され、風雨を祈願しました。
★平安時代中期に「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)・927年(延長5年)編纂」に「広瀬坐和加宇加乃売命神社(廣瀬坐和加宇加乃売命神社) 名神大 月次新嘗」と記され、名神大社(みょうじんたいしゃ・式内社(しきないしゃ))に列せられました。
★939年(天慶2年)7月26日に第57代・陽成天皇(ようぜいてんのう)が広瀬大社と龍田大社に倉一棟を建立し、翌940年(天慶3年)6月14日に神財を奉納しました。
★1081年(永保元年)に神階が最上位の正一位に昇叙し、その後二十二社の中7社に数えられました。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】
★室町時代頃に社領が500余町ありました。若宇加能売命(わかうかのめのみこと)に80町、相殿の櫛玉命(くしたまのみこと)・穂雷命(ほのいかづちのみこと)と摂社3座に各20町など神地封土など500余町を有していました。
★永正年間(1504年~1521年)に社領が室町幕府管領・細川氏に押領されました。
★1506年(永正3年)に室町幕府管領・細川政元(ほそかわまさもと)の家臣・赤沢朝経(あかざわともつね)の兵火に見舞われ、宝物・古文書などが焼失しました。
★1523年(大永2年)に百済寺の僧・学辧が「河相宮縁起」を書き写しました。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】
★天正年間(1573年~1591年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の異父弟で、大和大納言・豊臣秀長(とよとみひでなが)に社領が没収されました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
★元禄年間(1688年~1704年)に大忌祭が復興されました。大忌祭は戦国時代に江戸時代初期に一時衰退しました。
★1701年(元禄13年)に春日若宮神主・中連祐字が「廣瀬社勘文」を記しました。
★1711年(正徳元年)に本殿(奈良県指定有形文化財)が再建されました。
★1805(文化2年)に山城国・伏見稲荷神社から勧請され、稲荷社されました。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
★1871年(明治4年)5月14日に広瀬大社が官幣大社に列せられました。
★太平洋戦争後に社名が広瀬大社に改称されました。
★1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に列せられました。
★1988年(昭和63年)3月22日に本殿が奈良県指定有形文化財に指定されました。
★2009年(平成21年)12月11日に砂かけ祭り(御田植祭)が河合町指定無形民俗文化財に指定されました。
【第10代・崇神天皇:大和神社創建】
第10代・崇神天皇は紀元前149年(開化天皇9年)または紀元前148年(開化天皇10年)に第10代・開化天皇と伊香色謎命の間に生れたと言われています。「古事記」・「日本書紀」によると疫病が流行した為に大物主神を三輪に祭祀したり、北陸・東海・西海・丹波の四道に将軍を派遣して大和朝廷の勢力を広めたりしたと言われています。また男子に弓弭調、女子に手末調を課したりして財政制度の整備しました。崇神天皇は原始的な小国家を統一して大和政権を確立し、国内統治を進めたと言われています。なお第10代・崇神天皇は紀元前30年(崇神天皇68年)に崩御しました。
【広瀬大社 備考】
*参考・・・広瀬大社(アクセス・見どころ・・・)ホームページ