郡山城跡大和郡山盆梅展2024/2/3~3/10(日程時間・・・)

郡山城跡大和郡山盆梅展

郡山城跡大和郡山盆梅展(日程・・・)を紹介しています。大和郡山盆梅展は梅が見ごろを迎える時期(2月~3月)に行われています。大和郡山盆梅展では大和郡山市内の愛好家が丹精込めて育てた100鉢以上の盆梅が郡山城跡(追手門・追手向櫓・多聞櫓)で展示されます。櫓の外にはしだれ梅も植えられています。(詳細下記参照)

【郡山城跡大和郡山盆梅展2024 日程時間(要確認)】
郡山城跡大和郡山盆梅展2024は2024年(令和6年)2月3日(土曜日)~3月10日(日曜日)9:30~16:30に行われます。土曜日・日曜日・祝日は9:30~17:00です。(現在確認中・要注意)
*参考・・・奈良県産業施策推進事業ホームページ

【郡山城跡大和郡山盆梅展 アクセス・マップ】
場所・・・奈良県大和郡山市城内町
最寄り駅・バス停・・・近鉄郡山駅(徒歩約5分)

アクセス路線は次の通りです。
*近鉄橿原線

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【郡山城跡大和郡山盆梅展 歴史・簡単概要】
郡山城跡大和郡山盆梅展(やまとこおりやまぼんばいてん)は梅が見ごろを迎える時期(2月~3月)に行われています。大和郡山盆梅展は郡山城の城下町に春を呼ぶ行事とも言われています。
大和郡山盆梅展では大和郡山市内の愛好家が丹精込めて育てた100鉢以上の盆梅が郡山城跡(追手門(梅林門)・追手向櫓・多聞櫓)で展示されます。櫓の外にはしだれ梅も植えられています。なお期間中の土曜日・日曜日・祝日を中心に日本伝統芸能・猿まわしも行われます。(要確認)
梅はバラ科サクラ属の落葉高木です。梅には500種以上の品種があり、野梅系(やばいけい)・紅梅系(緋梅系)・豊後系(ぶんごけい)に大きく分類されるそうです。なお梅は中国原産で、中国から日本に伝わり、奈良時代に花見と言えば梅だったそうです。
現在花見といえば、一般的に桜を連想しますが、奈良時代には花見と言えば、中国から伝わった梅だったそうです。しかし平安時代になると梅から桜に少しずつ変わって行ったそうです。それは貴族などが詠んだ歌にも現れ、「万葉集」では梅を詠んだ歌が118首、桜を詠んだ歌が44種だったが、「古今和歌集」では逆転します。
盆栽は唐(中国)から日本に伝わった盆花・盆景が起源とも言われています。唐の第4代皇帝・中宗が亡くなった兄の為に造った陵墓には盆花が描かれた壁画があるそうです。

【郡山城跡 歴史・簡単概要】
郡山城跡(こおりやまじょうあと)は奈良時代に薬園があった場所と言われています。郡山城は1162年(応保2年)に郡山衆が雁陣の城を築いたのが起源とも言われています。その後1580年(天正8年)に筒井順慶(つついじゅんけい)が織田信長の援助によって大和国守護になり、1581年(天正9年)に明智光秀(あけちみつひで)が普請目付になって改修したと言われています。1584年(天正12年)に筒井順慶が亡くなると関白・豊臣秀吉の命により、養子・筒井定次が伊賀上野城に転封になり、1585年(天正13年)に秀吉の異父弟・豊臣秀長(とよとみひでなが)が入城し、大規模に改修したと言われています。しかし1591年(天正19年)に秀長、1595年(文禄4年)に養子・豊臣秀保が亡くなり、その後五奉行・増田長盛(ますだながもり)が入城し、惣構えに改修したと言われています。関ヶ原の戦い後、増田長盛が高野山に追放されると建物は伏見城に移されたと言われています。江戸時代に水野勝成が入城する際、徳川幕府によって改修されました。その後1724年(享保9年)に柳沢吉里が入城すると明治維新まで柳沢氏の居城になりました。なお郡山城は1873年(明治6年)に建物が破却され、一部は売却されたそうです。
郡山城跡(本丸・毘沙門曲輪)は奈良県の指定史跡です。
*参考・・・郡山城跡(アクセス・見どころ・・・)wikipedia

【郡山城跡大和郡山盆梅展 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
郡山城跡(アクセス・見どころ・・・)情報

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