達磨寺の歴史-修学旅行・観光の簡単解説
達磨寺の歴史を時代別年表で紹介。
達磨寺の歴史を簡単にまとめています。達磨寺は613年(推古天皇21年)に第31代・用明天皇の皇子・聖徳太子が創建したとも言われています。聖徳太子が自ら刻んだ達磨像を祀ったと言われています。なお達磨寺歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。
【前史(達磨大師)】
★達磨大師(達磨祖師)はインド人の仏教僧で、中国禅宗の開祖とされています。達磨大師はインドのバラモンで生まれ、6世紀初めに海路で中国に渡り、各地で中期大乗仏教の経典「楞伽経(りょうがきょう)」や禅を広めました。達磨大師は嵩山(すうざん)少林寺(しょうりんじ)で面壁9年の座禅を行ったとも言われています。また達磨大師は慧可(えか)が教えを求め、腕を切り取ってその決意を示したことから入門を認め、慧可が中国禅宗の第二祖となりました。日本の禅は中国禅宗(南宗)の六祖・慧能(えのう)の流れを汲むとされ、鎌倉時代(13世紀)に日本に公式に伝わったと言われています。明菴栄西(みょうあんえいさい)が中国・南宋から臨済宗(りんざいしゅう)、道元(どうげん)が曹洞宗(そうとうしゅう)を伝えました。
★6世紀頃に達磨寺1号墳・達磨寺2号墳・達磨寺3号墳が築造されました。達磨寺3号墳は達磨大師の塚とも言われ、その上に本堂が建立されています。達磨寺1号墳は第31代・用明天皇(ようめいてんのう)の皇子・聖徳太子(しょうとくたいし・厩戸皇子(うまやどのおうじ))の愛犬・雪丸の墓とされ、雪丸塚とも言われています。かつて達磨寺1号墳の上には雪丸像(王寺町指定有形文化財) が建てられていました。達磨寺1号墳の石室には地下道があり、聖徳太子(厩戸皇子)が創建した法隆寺(ほうりゅうじ)と繋がっているとも言われています。
【達磨寺創建(起源・由来)】
★達磨寺は613年(推古天皇21年)に聖徳太子(厩戸皇子)が創建したとも言われています。日本最古の正史「日本書紀(にほんしょき)・720年(養老4年)完成」によると613年(推古天皇21年)12月1日に聖徳太子が片岡山のほとりに住む道人を訪ねる際、道の傍で飢えと寒さに絶え、伏せっていた飢人(異人)を見付け、飲み物・食べ物・衣服を与えたが、飢人は翌日に亡くなりました。聖徳太子は飢人の墓をつくて厚く葬ったが、数日後に墓を確認すると埋葬したはずの遺体が消え、飢人が達磨大師(だるまだいし)の化身(けしん)と考えられるようになり、聖徳太子が自ら刻んだ達磨像を祀ったと言われています。この話は「片岡山飢人伝説」とも言われています。なお達磨寺の境内には達磨大師と聖徳太子が石に座り、歌を詠み交わしたという達磨石・太子石があります。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】
★鎌倉時代にお堂が達磨寺3号墳の上に建立され、本尊として聖徳太子像・達磨大師像が安置されました。なお達磨寺3号墳は古墳時代(3世紀中頃~7世紀頃)後期の円墳です。
★建久年間(1190年~1198年)に解脱上人(げだつしょうにん)・貞慶(じょうけい)が達磨像やお堂を修理し、達磨寺と称するようになりました。
★嘉禄年間(1225年~1228年)に興福寺(こうふくじ)によって焼き討ちされ、衰亡したと言われています。
★延応年間(1239年~1240年)に勝月上人が再興しました。
★1277年(建治3年)に聖徳太子坐像が造立されました。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】
★永享年間(1429年~1441年)に京都・建仁寺(けんにんじ)の南峯禅師が住持になり、山名時熙、室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)、室町幕府4代将軍・足利義持(あしかがよしもち)、室町幕府6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)などから援助されました。
★1430年(永享2年)に達磨坐像が造立されました。彩色は水墨画家・周文が行ないました。
★1448年(文安5年)に達磨寺中興記石幢(重要文化財)が本堂裏に建立されました。達磨寺中興記石幢は高さ約185センチの八角石柱で、八角の各面に達磨寺の由緒が刻まれています。
★永禄年間(1558年~1570年)に戦国大名・松永久秀(まつながひさひで・松永弾正(まつながだんじょう)によって焼き討ちされ、衰亡したと言われています。なお松永久秀は1577年(天正5年)10月の信貴山城の戦いで自害し、達磨寺に葬られ、松永久秀の墓があります。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】
★安土桃山時代頃に第106代・正親町天皇(おおぎまちてんのう)の綸旨や豊臣秀吉(とよとみひでよし)の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)の支援によって再興しました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
★江戸時代前期に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)から30石の朱印地が安堵されました。
★1667年(寛文7年)に方丈(奈良県指定有形文化財)が建立されました。方丈は西側の屋根が入母屋造(いりもやづくり)、東側の屋根が切妻造(きりづまづくり)になっています。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
★1891年(明治24年)に鐘楼が再建されました。
★2002年(平成14年)に本堂再建に伴う発掘調査により、宝篋印塔が本堂基壇の下の小石室から確認されました。宝篋印塔の中には土師質の合子が入れられ、その中に水晶製五輪塔型舎利容器が入れられていました。舎利容器の中には非常に小型の石英片岩の舎利が入れられていました。鎌倉時代に達磨寺3号墳が整備された際に小石室に納められたとも言われています。
★2004年(平成16年)に現在の本堂が再建されました。
【聖徳太子:達磨寺開基】
聖徳太子は574年(敏達天皇3年)に第31代・用明天皇と第29代・欽明天皇の第3皇女で、皇后・穴穂部間人の皇子として生まれました。幼少時から聡明で、仏法を尊んだと言われています。585年(用明天皇元年)に第30代・敏達天皇が崩御すると父・橘豊日皇子(第31代・用明天皇)が即位したが、 587年(用明天皇2年)に崩御しました。593年(崇峻天皇5年)に叔母で、史上初の女帝である第33代・推古天皇が即位すると皇太子・摂政になって補佐しました。聖徳太子は内政・外交などの政治に尽力し、603年(推古天皇11年)に冠位十二階、604年(推古天皇12年)に十七条憲法を制定したり、607年(推古天皇15年)に小野妹子を遣隋使として派遣したりしました。また仏教に深く帰依し、聖徳太子建立七大寺(法隆寺(斑鳩寺)・広隆寺(蜂丘寺)・法起寺(池後寺)・四天王寺・中宮寺・橘寺・葛木寺)を創建したり、「三経義疏」を著したりして仏教の振興に尽くしました。聖徳太子は622年(推古天皇30年)に亡くなりました。
【達磨寺 備考】
*参考・・・達磨寺(アクセス・見どころ・・・)ホームページ