長岳寺歴史-修学旅行・観光ポイント

長岳寺の時代別年表と重要人物

長岳寺歴史を簡単にマトメてポイント解説します。長岳寺は平安時代前期の824年(天長元年)に真言宗の宗祖である弘法大師・空海が第53代・淳和天皇の勅願により、大和神社の神宮寺として創建したと言われえいます。なお長岳寺歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。

【前史(大和神社)】

★紀元前475年(孝昭天皇元年)に夢告により、天照大神(あまてらすおおみかみ)と大和神社(おおやまとじんじゃ)の祭神・日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)は瑞籬宮(みずがきののみや)の大殿(皇居)に同殿共床で祀られるようになりました。その後世が乱れたり、謀反が起こったりするのは天照大神と日本大国魂大神の勢いだとされ、第10代・崇神天皇(すじんてんのう)は神威を恐れました。大和神社は紀元前92年(崇神天皇6年)に崇神天皇の命により、天照大神を皇女・豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)が笠縫邑(かさぬいむら)に遷して祀り、日本大国魂大神を皇女・淳名城入姫命(ぬなきいりひめ)が市磯邑(いちしのむら・大和郷)に遷して祀ったのが起源とも言われています。ただ淳名城入姫命は痩せて、祭祀を続けられなくなり、紀元前91年(崇神天皇7年)2月に倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が夢の中で神託を受け、同年8月にも倭迹迹日百襲姫命・大水口宿禰(おおみなくちのすくね)・伊勢麻績君らが同じ夢を見たことから天下太平の為、同年11月に初代・神武天皇(じんむてんのう)の臣・椎根津彦の子孫で、大倭直(やまとのあたい)の祖・市磯長尾市(いちしのながおち)が祭祀を行うようになったと言われています。

【長岳寺創建(起源・由来)】

★長岳寺は824年(天長元年)に真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)が第53代・淳和天皇(じゅんなてんのう)の勅願により、大和神社(おおやまとじんじゃ)の神宮寺(じんぐうじ)として創建したと言われえいます。寺伝によると弘法大師・空海が長岳寺を創建した際に鐘楼門(重要文化財)が建立され、日本最古の鐘門とも言われています。ただ鐘楼門は下層が室町時代から安土桃山時代、上層が平安時代末期頃に建立されたとも言われています。その後長岳寺は最盛期に48もの塔頭(たっちゅう)が建ち並び、衆徒は300名を超えたそうです。

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【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】

★平安時代中期頃に多聞天(たもんてん)像・増長天(ぞうちょうてん)像が造仏されました。多聞天像・増長天像は元々、大神神社の神宮寺・大御輪寺(だいごりんじ・大直禰子神社)に祀られていたが、大御輪寺が明治維新後の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で廃絶し、長岳寺に移されました。なお大御輪寺は元々、大神神社の祭主であった大神氏の館があった場所で、奈良時代に創建され、大神寺(おおみわでら)と言われていました。
★1151年(仁平元年)に本尊・阿弥陀三尊(阿弥陀如来(あみだにょらい)・観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)・勢至菩薩(せいしぼさつ))が造仏されました。阿弥陀三尊は堂々とした量感で、鎌倉時代の作風の先駆けとも言われています。

【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】

★鎌倉時代に高さ約2メートルの弥勒大石棺仏(みろくだいせっかんぶつ)が彫られました。また鎌倉時代に十三重石塔も建立されました。
★鎌倉時代に五智堂(重要文化財)が長岳寺の西方約1キロに位置する飛び地に建立されました。五智堂は中央の心柱を大日如来(だいにちにょらい)に見立て、心柱上部に四仏の種子が表され、全体で五智如来(ごちにょらい)を表しています。なお五智堂は方一間・全面吹き放しの形状から傘堂とも言われています。またいずれの四方も正面に見えることから真面堂(まめんどう)とも言われています。
★鎌倉時代に法相宗(ほっそしゅう)の大本山・興福寺(こうふくじ)の塔頭(たちゅう)・大乗院(だいじょういん)の末寺になりました。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】

★室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))が起こったり、1502年(文亀3年)に兵火が起こったりし、長岳寺が衰微したと言われています。

【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】

★安土桃山時代に狩野山楽(かのうさんらく)が縦約3メートル・横約11メートルの紙本著色六道絵(けんぽんちゃくしょくろくどうえ・極楽地獄図(ごくらくじごくえ))を描きました。紙本著色六道絵は9幅で構成され、精緻に描写されています。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

★1602年(慶長7年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の支援により、長岳寺が復興されました。
★1630年(寛永7年)に旧・地蔵院(じぞういん)が建立されました。旧・地蔵院は48あった塔頭のひとつで、唯一遺構が残されているものです。旧・地蔵院は現在、庫裏として使用されています。なお庫裏は室町時代の書院造(しょいんづくり)の様式を伝えています。
★1640年(寛永17年)に大門が再建されました。
★1645年(正保2年)に大師堂(奈良県指定有形文化財)が建立されました。大師堂には弘法大師・空海像が安置されています。
★1783年(天明3年)に現在の本堂が建立されました。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

★明治維新後の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、大神神社の神宮寺・大御輪寺が廃絶になり、多聞天像・増長天像が長岳寺に移されました。

【弘法大師・空海:長岳寺開山】

弘法大師・空海は774年(宝亀5年)に讃岐国多度郡屏風浦(香川県善通寺市)で佐伯直田公と阿刀大足の妹の間に生まれました。789年(延暦8年)に母方の叔父・阿刀大足のもとで論語・孝経・史伝などを学び、792年(延暦11年)に官僚育成機関である大学寮に入って官吏としての学問を修めました。その後仏道を志して山林で修行し、三論宗の僧で、東大寺別当・勤操のもとで南都仏教を学びました。804年(延暦23年)に遣唐使として唐(中国)に渡り、長安で青竜寺の恵果のもとで密教を学び、伝法阿闍梨位の灌頂を受け、遍照金剛の灌頂名を与えられました。806年(大同元年)に帰国し、真言密教を日本に伝えて真言宗の開祖になりました。816年(弘仁7年)から高野山で金剛峯寺創建に着手し、823年(弘仁14年)に東寺を賜って真言密教の道場にしました。なお弘法大師・空海は835年(承和2年)に高野山で亡くなりました。

【長岳寺 備考】
*参考・・・長岳寺(アクセス・見どころ・・・)ホームページ

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