帯解寺歴史-修学旅行・観光ポイント

帯解寺

帯解寺の時代別年表と重要人物

帯解寺歴史を簡単にマトメてポイント解説します。帯解寺は真言宗の宗祖である弘法大師・空海の師とも言われている勤操大徳が創建した巖渕寺(石淵寺)の塔頭が起源と言われています。帯解寺はかつて霊松庵とも言われたそうです。なお帯解寺歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。

【前史(巖渕寺(石淵寺))】

★796年(延暦15年)に真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)の師とも言われている勤操大徳(ごんそうだいとく)が巖渕寺(石淵寺(いわぶちでら))で、法華八講(石淵八講)を行ったとされ、それ以前に巖渕寺(石淵寺)が創建されていたとも言われています。勤操大徳は「法華経(ほけっきょう)」を書写し、8日に渡って講じ、これが各宗派で行われる法華八講の起源と言われ、法華八講の発祥地とされています。巖渕寺(石淵寺)は平城京東郊、高円山(たかまどやま)山麓で、白毫寺(びやくごうじ)の南側から東側に建立されていたと言われています。

【帯解寺創建(起源・由来)】

★帯解寺は寺伝によると奈良時代後期から平安時代前期頃に勤操大徳が創建した巖渕寺(石淵寺)の塔頭(たっちゅう)が起源と言われています。塔頭は巌渕千坊とも言われ、帯解寺はかつて美しい松があったことから霊松庵とも言われたそうです。

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【平安時代(794年頃~1185年頃)の出来事】

★858年(天安2年)春に第55代・文徳天皇(もんとくてんのう)の勅願によって伽藍が建立され、「無事に腹帯が解けて安産できた寺」として、勅命によって帯解寺と称するようになりました。文徳天皇と后・染殿皇后(そめどののこうごう・藤原明子(ふじわらのめいし))は長く世継ぎに恵まれなかったが、藤原氏の祖神・春日明神(かすがみょうじん・春日大社)の「奈良から南に一里(約4キロ)のところに、腹帯をした地蔵菩薩(じぞうぼさつ)があるので祈願せよ」というお告げがあり、お告げの通りに帯解寺の地蔵菩薩で祈願すると間もなく懐妊し、第56代・清和天皇(せいわてんのう)となる惟仁親王(これひとしんのう)を授かり、文徳天皇は大変喜んだと言われています。それ以来、帯解寺は朝野を問わず、子授け・安産祈願の寺として信仰されるようになったそうです。なお地蔵菩薩半跏像(重要文化財)は平安時代前期に弘法大師・空海が一刀三礼で造仏したと言われています。地蔵菩薩半跏像は像高約182.6センチの半跏(はんか)像で、寄木造です。左手に宝珠(ほうじゅ)、右手に錫杖(しゃくじょう)を持ち、左足を踏み下げて岩座上に坐し、腹前に裳(も)の上端の布や結び紐が表されているところから「腹帯地蔵」とも言われ、安産・求子(子授け)などのご利益があると言われています。
★平安時代前期に女流歌人・小野小町(おののこまち)が本尊・地蔵菩薩に病気平癒(びょうきへいゆ)や無病息災(むびょうそくさい)を祈願する為に度々参拝したと言われています。
★1180年(治承4年)に平重衡(たいらのしげひら)による南都焼き討ちにより、伽藍が焼失しました。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事】

★江戸時代前期に長年世継ぎがなかった江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)の正室・お江(おごう)の方が本尊・地蔵菩薩に祈願すると江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)を授かりました。喜んだ徳川家からは山門が寄進されました。山門は二階建ての楼門造り(ろうもんづくり)で、仁王(におう・金剛力士(こんどうりきし))像が安置されていました。
★江戸時代前期に長年世継ぎがなかった江戸幕府3代将軍・徳川家光の側室・御楽(おらく)の方が乳母だった春日局(かすがのつぼね)の勧めにより、帯解寺で祈願すると江戸幕府4代将軍・徳川家綱(とくがわいえつな)を授かったと言われています。喜んだ徳川家光は返礼として、秘仏・誕生釈迦仏(たんじょうしゃかぶつ)などを寄進し、本堂が再建されました。また徳川家綱からは1663年(寛文3年)に手水鉢(ちょうずばち)が寄進されました。
★江戸時代末期の安政の地震により、山門が倒壊しました。なお現在は簡素な四脚門造り(しきゃくもんづくり)の門が建立されています。
★江戸時代に帯解寺は「南都名所集(なんとめいしょしゅう)」・「大和名所図会(やまとめいしょずえ)」に紹介され、門前で販売されていた帯解地黄煎飴が畿内の名物になり、大変賑わいました。

【明治時代以降(1868年頃~)の出来事】

★2007年(平成19年)に小野小町を祀る小町之宮が再建されました。
★1959年(昭和34年)7月に皇太子妃・美智子殿下の懐妊の際、宮内庁から選定され、安産祈願の法要を行ない、同年9月30日に安産岩田帯(さらし)・お守り・ご祈祷札を献納しました。また1965年(昭和40年)8月・1968年(昭和43年)10月にも安産祈願の法要を行ない、安産岩田帯・お守り・ご祈祷札を献納しました。東宮御所からお礼状を賜りました。
★1991年(平成3年)5月・1994年(平成6年)8月に秋篠宮妃・紀子殿下の懐妊の際、安産祈願の法要を行ない、安産岩田帯・お守り・ご祈祷札を献納しました。
★2001年(平成13年)6月に皇太子妃・雅子殿下の懐妊の際、安産祈願法要を修し、安産祈願の法要を行ない、安産岩田帯・お守り・ご祈祷札を献納しました。東宮御所からお礼状を賜りました。

【勤操大徳:帯解寺開山】

勤操大徳は754年(天平勝宝6年)に大和国高市郡で生れました。父は秦氏、母は嶋史氏でした。12才で大安寺に入寺し、大安寺の信霊・善議に三論宗を学び、千僧度者に選ばれました。京都・比叡山延暦寺の根本中堂で落慶供養が行われた際に堂達を務め、796年(延暦15年)に栄好の追善の為、勤操大徳が創建した石淵寺で法華八講(石淵八講)を創始しました。勤操大徳は石淵上人・石淵僧正とも称されました。813年(弘仁4年)に大極殿での最勝講で法相宗義を論破し、律師に任じられました。法相宗全盛の中で、三論宗の地位向上に貢献しました。819年(弘仁10年)に少僧都に任じられ、その後造東寺別当・東大寺別当・弘福寺(川原寺)別当・西寺別当を歴任し、826年(天長3年)に大僧都に任じられました。勤操大徳は南都仏教に属し、天台宗の宗祖である伝教大師・最澄、真言宗の宗祖である弘法大師・空海らと交流を持ち、最澄・空海から灌頂を受けました。なお勤操大徳は827年(天長4年)に亡くなり、没後に僧正位が追贈されました。

【帯解寺 備考】
*参考・・・帯解寺(アクセス・見どころ・・・)ホームページ

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