長谷寺の歴史は道明が天武天皇の銅板法華説相図を安置したのが起源
長谷寺の時代別年表と重要人物
長谷寺は寺伝による686年(朱鳥元年)に道明が天武天皇の銅板法華説相図を西の岡に安置したのが起源です。727年(神亀4年)に徳道が聖武天皇の勅命により、霊木で十一面観音を刻み、東の丘に安置したと言われています。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。
【長谷寺が建立されている場所】
- 長谷寺が建立されている場所はかつて泊瀬(はつせ)・豊初瀬(とよはつせ)などと美しい名で呼ばれ、万葉集で「隠国(こもりく)の泊瀬」と謳われました。ちなみに長谷寺は初瀬寺・泊瀬寺・豊山寺とも言われています。
【長谷寺の起源・始まり】
- 長谷寺は飛鳥時代後期の686年(朱鳥元年)に僧・道明(どうみょう)が第40代・天武天皇(てんむてんのう)の銅板法華説相図(どうばんほっけせっそうず・千仏多宝仏塔(せんぶつたほうぶっとう))を西の岡(本長谷寺)に安置したのが起源とも言われています。道明は天武天皇の病気平癒の為に銅板法華説相図を鋳造したと言われています。なお銅板法華説相図は縦83.3センチ・横74.2センチで、地中から三重宝塔(さんじゅうほうとう)が湧出し、千仏が雲集して、仏教の開祖・釈迦(しゃか)の説法を賛嘆する法華経見宝塔品の場面をレリーフで表しています。
【奈良時代(710年頃~794年頃)の出来事】
- 727年(神亀4年)に僧・徳道(とくどう)が第45代・聖武天皇(しょうむてんのう)の勅命により、自ら近江(滋賀)高島から流れてきた霊木を使って像高約8.6メートル(二丈六尺)の本尊・十一面観音(じゅういちめんかんのん)像を刻み、衆生の為に東の丘(現在の本堂)に安置したと言われています。ちなみに徳道は718(養老2年)に閻魔大王からお告げを受けて、西国三十三所観音霊場を開祖したと言われています。なお長谷寺は当初、華厳宗(けごんしゅう)の大本山・東大寺(とうだいじ)の末寺になりました。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の出来事】
- 847年(承和14年)に定額寺(じょうがくじ)に列せられ、858年(天安2年)に僧を統括する上座(じょうざ)・寺主(じしゅ)・都維那(ついな)の僧職・三綱(さんごう)が置かれました。870年(貞観12年)に別当・三綱が太政官(だじょうかん)の解由の対象になることが定められ、朝廷(太政官)の統制下に置かれました。
- 944年(天慶7年)に本尊・十一面観音像などが焼失したと言われています。
- 1024年(万寿元年)に関白・藤原道長(ふじわらのみちなが)が長谷寺に参詣したと言われています。
- 1052年(永承7年)に本尊・十一面観音像などが焼失し、1054年(天喜2年)に本尊・十一面観音像などが再造され、伽藍も再建されたと言われています。
- 1094年(嘉保元年)に焼失し、1131年(天承元年)に再建されたと言われています。
- 平安時代中期以降に奈良時代初期の718年(養老2年)に徳道上人(だいとくしょうにん)が閻魔大王(えんまだいおう)からお告で開いたとされる西国三十三ヶ所観音霊場として信仰されました。
- 平安時代中期以降に法相宗(ほっそうしゅう)の大本山・興福寺(こうふくじ)の末寺になりました。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の出来事】
- 1219年(建保7年)に焼失し、1226年(嘉禄2年)に再建されたと言われています。
- 1280年(弘安3年)に焼失し、1281年(弘安4年)に再建されたと言われています。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の出来事】
- 1495年(明応4年)に興福寺の衆徒(六方衆)による兵火によって焼失し、1498年(明応7年)に再建されました。
- 1536年(天文5年)に焼失し、1538年(天文7年)に再建されました。本尊・十一面観音像は1536年(天文5年)までに7度焼失し、1538年(天文7年)に東大寺仏生院の仏師・実清良覚が像高10メートルを越える現在(8代目)の本尊・十一面観音像が造仏したと言われています。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の出来事】
- 1588年(天正16年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の弟・豊臣秀長(とよとみひでなが)の援助によって本堂が再建されました。この頃豊臣秀吉による根来攻めによって根来寺(ねごろじ)を追われた学頭・専誉(せんよ)が豊臣秀長に招請された長谷寺に入寺し、新義真言宗門徒による真言宗(しんごんしゅう)豊山派(ぶざんは)になりました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事】
- 1650年(慶安3年)に江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の寄進により、本堂などが再建されました。
- 1667年(寛文7年)に江戸幕府4代将軍・徳川家綱(とくがわいえつな)の寄進により、本坊が建立されました。
【明治時代以降(1868年頃~)の出来事】
- 1911年(明治44年)に本坊が表門を残して焼失し、1924年(大正13年)に本坊が再建されました。
【長谷寺の開山とされる僧・道明】
僧・道明は生没年不詳です。道明は六人部氏として生まれ、弘福寺(ぐふくじ・川原寺)の住職(住持)だったと言われています。「日本三代実録」の貞観18年(876年)5月28日条に「大和国長谷山寺。これ長朗の先祖川原寺修行法師位道明 宝亀年中その同類を率いて国家の奉為建立するところなり」と記されています。なお道明は徳道らを率いて、近江国(滋賀)高嶋郡白蓮華谷にあった霊木を使って十一面観音像を造仏し、長谷寺を創建したと言われています。
【長谷寺 備考】
*参考・・・長谷寺(歴史・見どころ・・・)ホームページ