豊臣秀長(とよとみひでなが)と春日若宮おん祭
豊臣秀長と春日若宮おん祭
豊臣秀長と春日若宮おん祭を紹介しています。豊臣秀長は春日若宮おん祭を取り仕切る施主になり、願主人を抱えて春日若宮おん祭を事実上先導するようになりました。豊臣秀長は影向の松付近の松の下に仮屋を建て、お渡り式を見分しました。(詳細下記参照)
【春日若宮おん祭2024 日程時間(要確認)】
春日若宮おん祭2024は2024年(令和6年)7月1日(月曜日)から始まり、中心神事は12月15日(日曜日)~18日(水曜日)に行われます。なおハイライトのお渡り式(行列)は12月17日(火曜日)12:00から奈良県庁前を出発して巡行します。
春日若宮おん祭2024日程
【春日若宮おん祭 基礎知識】
春日若宮おん祭は平安時代(794年~1185年)後期の1135年(保延元年)に若宮神社が創建され、翌1136年(保延2年)9月17日に行われた例祭が起源です。若宮神社が創建されされるとその霊験により、大雨・洪水は収まって、晴天が続いたことから五穀豊穣・万民安楽を祈願する例祭が行われるようになりました。なおおん祭で奉納されている猿楽・雅楽・舞楽などの奉納芸能は1979年(昭和54年)に春日若宮おん祭の神事芸能として、国の重要無形民俗文化財に指定されています。
【豊臣秀長(とよとみひでなが)と春日若宮おん祭】
豊臣秀長は安土桃山時代(1573年~1603年)の1585年(天正13年)に大和郡山城(こおりやまじょう)に入城し、その後春日若宮おん祭を取り仕切る施主になり、願主人を抱えて春日若宮おん祭を事実上先導するようになりました。豊臣秀長は春日大社一の鳥居そばに植えられていた影向の松(ようごうのまつ)付近の松の下に仮屋を建て、日使(ひのつかい)・神子(みこ)・猿楽(さるがく)・田楽(でんがく)などの芸能集団などのお渡り式を見分しました。豊臣秀長は異父兄・豊臣秀吉の為に仮屋を建てたとも言われています。ちなみに影向の松は絵巻物「春日権現霊験記(1309年(延慶2年))」によると春日大明神(かすがだいみょうじん)が翁の姿で降臨し、万歳楽(まんざいらく)を舞ったとも言われています。また豊臣秀長は従者を行列に加え、馬乗100騎や多数の槍持ちで祭りを華美にさせました。更に豊臣秀長は田楽頭役に300石を与えて助成し、流鏑馬(やぶさめ)を盛大に行いました。流鏑馬には筒井氏が伊賀国に国替されらて大和士(やまとざむらい)も大和を離れ、春日若宮おん祭が衰退した為、これを嘆いた豊臣秀長が流鏑馬を奉仕する大和国人を呼び戻して奉仕させたという伝承が残されています。その後仮屋は増田長盛(ますだながもり)・大久保藤十郎・奈良奉行も使用し、大和を支配する者の指定席になりました。
豊臣秀長は南都奉行・井上源吾(いのうえげんご)に命じ、大宿所(おおしゅくしょ)を造営させました。大宿所は遍照院(へんじょういん)の旧地に造営され、春日若宮おん祭の際に「せんじょ(遍照院の訛り)行こう まんじょう行こう せんじょの道に何がある 尾のある鳥(雉)と 尾のない鳥(兎)と せんじょ行こう まんじょう行こう」と子供が囃しました。大宿所は春日若宮おん祭の際、願主役(がんしゅやく)・御師役(おしやく)・馬場役(ばばやく)を勤める大和士が精進潔斎(しょうじんけっさい)した参籠所(さんろうじょ)で、雉(きじ)・鯛(たい)・鮭(さけ)などの懸物が吊るされ、野太刀(のだち)・馬長児(ばちょうのちご)の笹などの渡り道具・装束などが並べられ、神前に献菓子などが供えられました。
●豊臣秀長は戦国時代(1493年~1590年)の1540年(天文9年)4月8日に竹阿弥(ちくあみ)と仲(なか・天瑞院(てんずいいん))の子、関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の異父弟として尾張国愛知郡中村で生まれました。異父兄・豊臣秀吉に早くから仕え、斎藤龍興(さいとうたつおき)の戦いで城の留守居役を務め、1573年(天正元年)に豊臣秀吉が浅井氏(あざいし)を滅ぼして長浜城(ながはまじょう)城主となると城代になりました。1575年(天正3年)に「羽柴」の名字を与えられました。1576年(天正4年)に右腕となる藤堂高虎(とうどうたかとら)が仕官しました。1577年(天正5年)からの中国攻め(ちゅうごくぜめ)で豊臣秀吉が織田信長(おだのぶなが)から総司令官に任命されると頭角を現しました。1582年(天正10年)に明智光秀(あけちみつひで)による本能寺(ほんのうじ)の変で織田信長が自刃するとその後の山崎の戦い・1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)・1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)で豊臣秀吉の片腕として従軍しました。1585年(天正13年)の紀州征伐(きしゅうせいばつ)で副将に任命され、その功績で紀伊・和泉などの約64万石余の所領を与えられ、1585年(天正13年)の四国攻めで病気で出陣できない豊臣秀吉の代理人として総大将に任命され、その功績で100万石に加増され、大和郡山城(こおりやまじょう)を居城にしました。この頃に「豊臣」の本姓を与えられました。1586年(天正14年)に大友宗麟(おおともそうりん)が豊臣秀吉のもとに上洛した際、豊臣秀吉は大友宗麟をもてなし、「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候、いよいよ申し談ずべし」と述べ、豊臣秀吉の補佐役として権限の一部が委託されていました。1587年(天正15年)の九州平定(きゅうしゅうへいてい)で日向(ひゅうが)方面の総大将になり、戦後に従二位(じゅにい)・権大納言(ごんだいなごん)に叙任されると大和大納言と称されました。1590年(天正18年)1月頃から病気が悪化し、小田原征伐(おだわらせいばつ)に従軍できず、1591年(天正19年)2月15日に大和郡山城で病死しました。男子がいなかった為、家督は養嗣子になっていた甥・豊臣秀保(姉・智の息子で、豊臣秀次の弟)が継ぎました。なお豊臣秀長は温厚な性格で、豊臣秀吉や諸大名の信望があつく、豊臣政権下で枢要の位置を占めました。
【豊臣秀長と春日若宮おん祭 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
春日若宮おん祭2024