関白・藤原忠通(ふじわらのただみち)と春日若宮おん祭
関白・藤原忠通と春日若宮おん祭
関白・藤原忠通と春日若宮おん祭を紹介しています。藤原氏長者で、関白・藤原忠通は1136年(保延2年)に五穀豊穣・万民安楽を祈願する為、春日若宮おん祭を始めたと言われています。ちなみに春日若宮おん祭は創始以来、一度も途切れることなく、現在まで続けられています。(詳細下記参照)
【春日若宮おん祭2024 日程時間(要確認)】
春日若宮おん祭2024は2024年(令和6年)7月1日(月曜日)から始まり、中心神事は12月15日(日曜日)~18日(水曜日)に行われます。なおハイライトのお渡り式(行列)は12月17日(火曜日)12:00から奈良県庁前を出発して巡行します。
春日若宮おん祭2024日程
【春日若宮おん祭 基礎知識】
春日若宮おん祭は平安時代(794年~1185年)後期の1135年(保延元年)に若宮神社が創建され、翌1136年(保延2年)9月17日に行われた例祭が起源です。若宮神社が創建されされるとその霊験により、大雨・洪水は収まって、晴天が続いたことから五穀豊穣・万民安楽を祈願する例祭が行われるようになりました。なおおん祭で奉納されている猿楽・雅楽・舞楽などの奉納芸能は1979年(昭和54年)に春日若宮おん祭の神事芸能として、国の重要無形民俗文化財に指定されています。
【関白・藤原忠通(ふじわらのただみち)と春日若宮おん祭】
藤原氏長者で、関白・藤原忠通は平安時代(794年~1185年)後期の1136年(保延2年)に五穀豊穣・万民安楽・国民安寧などを祈願する為、大和一国をあげて春日若宮おん祭を始めたと言われています。ちなみに春日若宮おん祭は創始以来、一度も途切れることなく、現在まで850年以上続けられています。藤原忠通は春日若宮おん祭に向かう途中に急病になり、お供の楽人(がくじん)にその日の使いをさせ、現在、春日若宮おん祭・お渡り式(例年12月17日)で1番目を巡行する日使(ひのつかい)の起源になっています。日使は黒の束帯(そくたい)に藤の造り花を冠に挿し、馬に騎乗します。なお最初の春日若宮おん祭の際に行われた要人が幣を奉る儀式では藤原忠通の順番は6番目で、興福寺の別当、父・藤原忠実(ふじわらのただざね)、弟・藤原頼長(ふじわらのよりなが)らよりも後回しでした。
藤原忠通の長男・恵信(けいしん・覚継(伊豆僧正))や九男・信円(しんえん)は春日大社の実権を握っていた時期があった興福寺(こうふくじ)の別当になりました。興福寺は藤原氏の氏寺で、春日若宮おん祭を主催して取り仕切り、莫大な費用も興福寺が寄進した荘園の収入などで賄いました。興福寺では春日若宮おん祭を境内のお旅所に鎮守である春日大社・若宮神社の祭神を迎えて祀る儀礼としていました。ちなみにお渡り式ではかつて行列が興福寺から出発していました。なお藤原忠通は1136年(保延2年)に日本国内で2番目に古い石灯籠とも言われてい柚木(ゆのき)型石燈籠を春日大社に奉納しました。
春日若宮おん祭は「大乗院日記目録」によると1136年(保延2年)に朝廷が大和国の国司支配の復活を目指し、関白・藤原忠通が大和国の検地を実施しようとした際、興福寺が大和国の支配継続の勝訴を願って始めたとも言われています。
●藤原忠通は平安時代(794年~1185年)後期の1097年(承徳元年)3月15日に関白・藤原忠実(ふじわらのただざね)と源顕房(みなもとのあきふさ)の娘・源師子(みなもとのしし)の次男として生まれました。1103年(康和5年)に公卿・歌人である大江匡房(おおえのまさふさ)により、「藤原忠通」と名付けられました。1107年(嘉承2年)に元服して白河法皇(第72代・白河天皇(しらかわてんのう))の猶子になり、1114年(永久2年)に白河法皇の意向により、白河法皇の養女・藤原璋子(ふじわらのしょうし)との縁談が持ち上がるが、父・藤原忠実が藤原璋子の素行に関わる噂から固辞しました。1120年(保安元年)の白河法皇による保安元年の政変(ほあんがんねんのせいへん)により、父・藤原忠実が関白を辞任し、その代わりに藤原氏長者になり、翌1121年(保安2年)に第74代・鳥羽天皇(とばてんのう)の関白になりました。藤原忠通は第75代・崇徳天皇(すとくてんのう)、第76代・近衛天皇(このえてんのう)、第77代・後白河天皇(ごしらかわてんのう)の3代に渡って摂政・関白を務めました。1129年(大治4年)に娘・藤原聖子(ふじわらのせいし)を崇徳天皇の後宮に女御として入内させ、翌1130年(大治5年)に中宮になりました。その後父・藤原忠実と父が寵愛する23歳年下の弟・藤原頼長(ふじわらのよりなが)と対立し、1150年(久安6年)に弟・藤原頼長に藤原氏長者の地位を奪われました。藤原忠通は長く男子に恵まれず、弟・藤原頼長を養子にしたこともあったが、その後破棄しました。藤原忠通は1156年(保元元年)の保元の乱で後白河天皇らとともに崇徳上皇や弟・藤原頼長らと戦って勝利し、崇徳上皇は讃岐国(香川県)に配流され、弟・藤原頼長は戦死しました。保元の乱後に再び藤原氏長者になったが、1158年(保元3年)に後白河天皇から処分を受け、四男で、近衛家始祖・近衞基実(このえもとざね)に関白の地位を譲って政界から引退し、1162年(応保2年)に法性寺(ほっしょうじ)別業で出家して円観と号しました。藤原忠通は和歌・書に秀で、小倉百人一首の76番に「わたの原 こぎいでてみれば 久方の 雲いにまがふ 沖つ白波 (法性寺入道前関白太政大臣)」と詠んでいます。また書の法性寺流を開きました。漢詩集「法性寺関白集」・家集「田多民治ただみち集」・日記「法性寺関白記」なども残されています。なお藤原忠通は1164年(長寛2年)3月13日に亡くなりました。
【関白・藤原忠通と春日若宮おん祭 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
春日若宮おん祭2024