吉野山と関白・豊臣秀吉

吉野山

吉野山と関白・豊臣秀吉

豊臣秀吉は桃山時代の1594年(文禄3年)に徳川家康・宇喜多秀家・前田利家・伊達政宗・豊臣秀次・北政所・淀殿・茶人・連歌師など総勢5千人で吉野を訪れ、花見を楽しみました。吉野には「豊太閤花見塚」が残されています。

【吉野山の桜見ごろ(例年時期)・2025年開花満開予測】
吉野山の桜見ごろは例年4月上旬頃から4月中旬頃です。ただ桜の開花状況や見ごろ(満開)はその年の気候などによって多少前後することがあります。なお2025年1月下旬頃から奈良の桜開花・満開・見ごろ情報を発信します。
吉野山桜見ごろ

【吉野山 歴史・簡単概要】
吉野山は奈良県中央部を流れる吉野川(紀の川)南岸から大峰山脈に続く約8キロメートルの山稜です。吉野山では修験道の祖である役行者・役小角が修行中に感得した蔵王権現を桜の木に自ら刻み、桜が蔵王権現の神木とされ、蔵王権現に祈願する際に桜の苗木を寄進することが風習になりました。現在、吉野山には白山桜(シロヤマザクラ)など約200種・約3万本の桜の木が植えられています。

【吉野山と関白・豊臣秀吉】
関白・豊臣秀吉は吉野とゆかりがあり、古くから子授けの神として信仰されている吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)を訪れ、1593年(文禄2年)に側室・淀殿(よどどの)との間に豊臣秀頼(とよとみひでより・お拾(おひろい))を授かったとも言われています。豊臣秀吉は桃山時代の1594年(文禄3年)に徳川家康(とくがわいえやす)・宇喜多秀家(うきたひでいえ)・前田利家(まえだとしいえ)・伊達政宗(だてまさむね)・豊臣秀次(とよとみひでつぐ)・北政所(きたのまんどころ)・淀殿・茶人・連歌師など総勢5千人で吉野を訪れ、1594年(文禄3年)4月17日(旧暦2月27日)に花見を楽しみました。ただその年は長雨が続き、豊臣秀吉が吉野に入ってから3日間雨が続きました。豊臣秀吉は苛立ち、同行していた京都・聖護院(しょうごいん)の僧・道澄(どうちょう)に雨が止まなければ、吉野に火を掛けて下山すると伝えたことから道澄は吉野全山の僧に夜通し晴天祈祷を命じました。その結果一転して翌日に雨が止んで晴れ、如意輪寺(にょいりんじ)近くの丘で盛大な花見が催されました。一行は山伏・巫女などに仮装し、馬に錦の覆いを被せ、犬に紅の紐を引かせるなど豪華な花見だったと言われています。また豊臣秀吉は甥の豊臣秀次らとともに金剛蔵王大権現(こんごうざおうだいごんげん)の宝前で自ら能を舞ったと言われています。豊臣秀吉は金峯山寺(きんぷせんじ)の僧坊・吉水院(きっすいいん・吉水神社(よしみずじんじゃ))を花見の本陣としました。吉水院(吉水神社)からは吉野の中千本・上千本を見渡すことができ、豊臣秀吉は「一目で千本見える。絶景じゃ、絶景じゃ」と称賛したと言われています。吉野には「豊太閤花見塚(ほうたいこうはなみづか)」が残され、吉野山を一望することができます。豊臣秀吉は「年月を 心にかけし 吉野山 花のさかりを 今日見つるかな」、豊臣秀次は「いつかはと 思ひ入りにし み吉野の 吉野の花を 今日こそは見れ」、徳川家康は「君が代は 千年の春も 吉野山 花にちぎりの 限りあらじな」、前田利家は「千早振る 神の恵みに かなひてぞ 今日み吉野の 花を見るかな」、伊達政宗は「君がため 吉野の山の まきの葉の 常磐に花も 色やそはまし」と和歌を詠みました。なお豊臣秀吉は1598年(慶長3年)3月15日(新暦4月20日)に京都・醍醐寺(だいごじ)とその塔頭・三宝院(さんぼういん)で花見を行て醍醐の花見と言われています。豊臣秀吉は同年8月18日(新暦9月18日)に亡くなり、醍醐の花見が最後の花見とも言われています。

【関白・豊臣秀吉】
関白・豊臣秀吉は1537年(天文6年)に足軽(百姓)・木下弥右衛門と美濃の鍛冶・関兼貞の娘・なか(天瑞院)の間に生まれたと言われています。先ず今川氏の家来で、引馬城の支城・頭陀寺城城主・松下之綱に仕え、1554年(天文23年)頃から戦国大名・織田信長に仕えました。1561年(永禄4年)に浅野長勝の養女・北政所(ねね)と恋愛結婚しました。その後墨俣一夜城・金ヶ崎の戦いなどの数々の戦功を重ね、1573年(天正元年)に浅井氏が滅亡すると長浜城城主になりました。1582年(天正10年)に明智光秀が織田信長に謀反を起こした本能寺の変後、山崎の戦いで明智光秀を破り、京都の支配権を掌握しました。1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破りました。その後四国・九州・関東・奥羽を平定し、1590年(天正18年)に天下を統一を成し遂げ、太閤検地・刀狩りなどの政策を行いました。また1585年(天正13年)に関白、翌1586年(天正14年)に豊臣姓を賜って、太政大臣になりました。その後唐入り(中国入り)を目指し、1592年(天正20年)から文禄・慶長の役が始まりました。なお豊臣秀吉は1598年(慶長3年)9月18日に伏見城内で亡くなりました。

【吉野山と関白・豊臣秀吉 備考】
*奈良には多くの桜名所があり、その桜見ごろを下記リンクから確認できます。
奈良桜見ごろ2025

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