達磨寺節分豆まき2025年2月1日(日程時間・・・)
達磨寺節分豆まき(日程・アクセス・概要)
達磨寺節分豆まき(日程時間など)を紹介しています。節分豆まきは例年節分(立春の前日)頃に行われています。節分豆まきでは福豆まきが行われたり、○×クイズorじゃんけん大会などのイベントが行われたりします。(要確認)またプチ縁側縁日やプチワークショップなどのイベントも行われます。(要確認)(詳細下記参照)
【達磨寺節分豆まき2025 日程時間(要確認)】
達磨寺節分豆まき2025は2025年(令和7年)2月1日(土曜日)10:30~15:30頃に行われます。ラジオ大阪アナウンサー・原田年晴(王寺町観光・広報大使)が総合司会を務め、ゲストは歌手・川本三栄子(王寺町観光・広報大使)です。模擬店も多数出店します。(荒天中止)(現在確認中・要注意)
●福豆まき・・・11:00~・13:00~・14:00~(全3回)
●○×クイズorじゃんけん大会・・・11:40~・13:40~・14:40~(素敵な商品あり)
●プチ縁側縁日&プチワークショップ・・・10:00~15:00(方丈・荒天中止)
●2025年の模擬店は商工会青年部(雪丸ボール・いちご)・商工会女性部(だるま焼き)・いち屋(射的・わなげ)・飴屋本舗(飴細工)・焼肉天道(ホルモン吸い・恵方巻・キムチなど)・たこ焼きBARたこ坊(雪丸カステラ・たこ焼き)・OJI SPICE(ナンロール・ラッシー)・いざ!夢おはぎ(おはぎ・いきなり団子・かりんとう饅頭・赤飯・山菜おこわ・みたらし)・千の亮(大和牛コロッケ・吉野宮瀧醤油からあげ・フランクフルト・フライドポテト)・一福道(きなこ団子・いちご大福・和菓子)・自遊四季(雪丸まん・豚まん・餡バターまん・ソフトクリーム)・酒造割烹布川(鶏唐揚げ)・大和牛ホルモン天ぷら善一(ホルモン天ぷら・ポテト・から揚げ・甘酒)・STURKA(ケバブ・ロングポテトフライ・チーズハットグ〉
●JRふれあいハイキング冬号・・・JR王寺駅(9:30北側駅前広場・雪丸石像前集合)→大和川堤防沿い→西安寺跡(舟戸神社)→達磨寺→JR王寺駅(12:30頃解散)
*参考・・・おふさ観音(アクセス・見どころ・・・)ホームページ
●奈良の寺院・神社では節分・豆まきなどの行事が行われています。
奈良節分・豆まき2025
【達磨寺節分豆まき アクセス・マップ】
場所・・・奈良県北葛城郡王寺町本町2丁目1番40号
最寄り駅・バス停・・・王寺駅(徒歩約15分)、新王寺駅(徒歩約15分)
アクセス路線は次の通りです。
*JR関西本線・近鉄生駒線・近鉄田原本線
路線・時刻表・運賃チェック
【達磨寺節分豆まき 歴史・簡単概要】
達磨寺節分豆まき(せつぶんまめまき)は例年節分(立春の前日)頃に行われています。
節分豆まきでは福豆まきが行われたり、○×クイズorじゃんけん大会などのイベントが行われたりします。(要確認)またプチ縁側縁日やプチワークショップなどのイベントも行われます。(要確認)なお達磨寺では絵画・彫刻・掛け軸のモデルになっている達磨大師や様々なタイプのだるまが展示されます。(要確認)
●達磨寺では毎月方丈でだるまマーケットが行われ、節分豆まきに合わせて行われることがあります。(要確認)
●節分は元々季節が変わる節目で、立春・立夏・立秋・立冬の前日を差していたが、江戸時代以降は立春の前日だけを指す場合が多くなりました。節分には邪気悪霊(鬼)が外から入ってくるのを防ぐ為、「鬼は外・福は内」と言いながら福豆を撒き、年の数だけ福豆を食べて厄除けをします。豆撒きは平安時代中期の第59代・宇多天皇(867年~931年)の時代に鞍馬山の鬼が都を荒らしたことから毘沙門天のお告げにより、鬼の穴をけの祈祷で封じ、鬼の目を炒り豆で打ちつぶしたということに由来しているそうです。なお豆などの穀物には魔除呪力や生命力を持つという穀霊が宿っているとも言われています。ちなみに豆は鬼の目を表す「魔目(まめ)」から鬼を滅する「魔滅」を意味するようになったそうです。
●達磨大師はインド人の仏教僧で、中国禅宗の開祖とされています。達磨大師はインドのバラモンで生まれ、6世紀初期に中国に海路で渡り、各地で中期大乗仏教の経典「楞伽経」や禅を広めました。達磨大師は嵩山少林寺で面壁9年の座禅を行ったとも言われています。また達磨大師は慧可が教えを求め、腕を切り取ってその決意を示したことから入門を認め、慧可が中国禅宗の第二祖となりました。日本の禅は中国禅宗(南宗)の六祖・慧能の流れを汲むとされています。
【達磨寺 歴史・簡単概要】
達磨寺は613年(推古天皇21年)に第31代・用明天皇の皇子・聖徳太子が創建したとも言われています。日本最古の正史「日本書紀・720年(養老4年)完成」によると613年(推古天皇21年)12月に聖徳太子が道の傍で伏せっていた飢人(異人)を見付け、飲み物・食べ物・衣服を与えたが、飢人は亡くなりました。聖徳太子は飢人の墓をつくて厚く葬ったが、埋葬したはずの遺体が消え、飢人が達磨大師の化身と考えられるようになり、聖徳太子が自ら刻んだ達磨像を祀ったと言われています。その後建久年間(1190年~1198年)に解脱上人貞慶が達磨像やお堂を修理し、達磨寺と称するようになりました。嘉禄年間(1225年~1228年)に興福寺によって焼き討ちされて衰亡し、延応年間(1239年~1240年)に勝月上人が再興しました。永享年間(1429年~1441年)に建仁寺の南峯禅師が住持になり、山名時熙、室町幕府3代将軍・足利義満、室町幕府4代将軍・足利義持、室町幕府6代将軍・足利義教などから援助されました。永禄年間(1558年~1570年)に松永久秀(松永弾正)によって焼き討ちされて衰亡したが、第106代・正親町天皇の綸旨や豊臣秀吉の子・豊臣秀頼の支援によって再興しました。江戸時代前期に江戸幕府初代将軍・徳川家康から朱印地が安堵されました。2004年(平成16年)に本堂が再建されました。
*参考・・・達磨寺(アクセス・見どころ・・・)ホームページ
【達磨寺節分豆まき 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
達磨寺(アクセス・見どころ・・・)情報